朝鮮の歴史と時代劇の記事一覧

第7代国王世祖の第1王子李暲(懿敬世子)の第2王子として生まれました。

母は懿敬世子嬪韓氏(仁粋大妃)。成宗は王道政治を貫き通した名君と
して知られており、士林派を積極的に登用したのも成宗の時代に
入ってからと言われています。

幼い頃から聡明でとても可愛がられたと言われています。

世子であった父は、成宗の生後間もない1457年9月2日に病没しました。

1461年、5歳の時に乽山君に封ぜられましたが、1469年、懿敬世子の弟である
海陽大君が睿宗として即位してわずか1年2ヶ月で死去すると、
当時睿宗の息子は4歳と幼く、また兄の月山大君は病弱だったため、
祖母・慈聖大妃の命によって朝鮮国王に即位しました。

13歳で王位についたので、当初には慈聖大妃が摂政しました。
当時有力な国王候補たちを皆追い抜いて韓明澮と慈聖大妃の意向によって
王位に就いたので、摂政を受けた7年間の国政の全決定権元老大臣にありました。

しかし自身が王権を得た1476年からは、元老大臣が国政の重要な決定に
参加する院相制度を廃止して決裁権を取り戻し、功臣勢力を弱体化させる一方、
新進勢力を果敢に登用することで士林勢力の政治的基盤を作りました。

成宗の治世は“文化の黄金期”と呼ばれるほど、世宗と世祖が成した政治的
功績を土台に輝く文化政策を拡大させた時期でした。

1474年には世祖が編纂を開始した『経国大典』を完成・頒布し、
1492年には経国大典を補った『大典続録』と『東国輿地勝覧』、
『東国通鑑』、『楽学軌範』など多様な書籍を編纂、刊行しました。

また行政機関及び研究機関である弘文館を設置する一方、文臣中、
すぐれた才を持った人物を選んで家で読書するようにさせる賜暇読書
(湖堂制度)を実施するなど文化的発展に貢献しました。

また仏教を廃し儒教を重んじる崇儒抑仏政策を徹底的に実践しました。

そして対外的には鴨緑江周辺の女真族を追い出して、豆満江地域の
女真族の巣窟を掃討、辺方を安定させました。

朝鮮時代初期の文物制度は成宗の代にほぼ完成され、民衆は建国以来最も
太平な時代を謳歌しましたが、最後までは続きませんでした。

在位期間25年の間始終善政を敷いた成宗は、1494に38歳で死去しました。

朝鮮の歴史と時代劇

第7代国王世祖の第2王子でしたが、世子だった兄懿敬世子(桃源君)が
病の為早世した為、代わりに1457年に王世子となり、1468年に即位しました。

貞熹王后の摂政と重臣の補佐で国王の権力は大きく弱体化しました。

睿宗の治世の間に将軍・南怡の謀叛の企てが発覚したとされ、
関与したとされる多数の文官・武官が処刑された「南怡の謀叛事件」(1468年)や
「閔粋史獄」(1469年、実録の草本を収めた時に閔粋などが高官の非行を
書いた内容のために仕返しが恐ろしくて自分が作成した草本を修正した事件で、
連関者はある者は処刑されある者は奴婢に落とされた)
などの事件がありました。

病弱だったため19歳で薨去。在位期間は1年2ヶ月でした。

朝鮮の歴史と時代劇

第4代国王世宗の第2王子であり、第3代国王太宗の孫でした。

1452年に兄の文宗が没し、自らの甥にあたる端宗が11歳で即位すると、
弟の錦城大君とともに王を補佐する役割を担いますが、弟の安平大君や
端宗を補佐する大臣らを除いて政権を掌握しました。(癸酉靖難)

1454年にもう一人の弟、錦城大君も配流とし、1455年には第三代王の
太祖の長男の譲寧大君らの後押しにより自ら端宗に退位を強要し、
39歳で即位しました。

王位に就くと、上書を書いたり、また王宮の広場で座り込んで訴訟をする
反対勢力を拷問や股裂きの刑罰等でことごとく粛清し、
領議政・右議政・左議政の三議政が六曹と協議し、その結果を国王に
上奏する方式である「議政府署事制」を廃して、再び明の制度を手本として
作られた省庁を王が直接統括する制度である「六曹直啓制」を復活、
王権を自身の元に集約しました。

また、甥で上王であった端宗を同年6月に魯山君に降格し同年11月に
配流先で賜薬により死刑にしました。

あの公明正大な大王世宗の息子とは思えないほど猟奇的な王でした。
どちらかというと、祖父に当たる太祖(兄弟を殺戮して王の座についた)
に似ていますね。

晩年には自身の身体の皮膚が徐々に癩病(現在でいうハンセン病)に
侵されるようになり、1468年9月7日に次男の海陽大君(のちの睿宗)に
王位を譲って上王となりましたが、翌日に52歳(数え年)で薨去しました。

世祖の功績としては、強力な王権を維持するため、官制の改革、法制や
軍制の充実に努め、朝鮮王朝の基本法典である「経国大典」*の編纂を
開始しました。

*太祖時代の『続六典』を踏まえ、世祖は「万世の法」としての
「六典」の編纂を臣下に命じ、世祖在位中の1466年にほぼ完成するも、
正式な制定には至らなかった。
編纂事業は睿宗・成宗代に引き継がれ、今日伝わる『経国大典』は、
1485年正月に頒布されたものである。
完成施行まで、建国からほぼ一世紀を要した『経国大典』は、
儒教的法治国家としての朝鮮王朝の原点をなす法体系である。

朝鮮の歴史と時代劇

韓国時代劇のドラマ『イ・サン』や映画『王の涙-イ・サンの決断-』の
主人公として有名な正祖(チョンジョ)ですが、王になる前から
何度も命の危機にさらされました。

21代王・英祖の息子荘献が世子の時、廃されて米びつに入れられ
餓死させられたときその息子である祘(サン)は、必死で
「父親を助けてほしい」と懇願しますが、英祖はその願いを
受け入れませんでした。

結局、荘献は世子という立場でありながら、米びつの中で餓死するという
悲惨な最期を遂げましたた。

幼かった祘は、父親を陥れた者たちに対して復讐心を抱きました。

世子だった荘献が亡くなったことで、英祖が新たな後継者として祘を
指名しました。

立派な後継者にするために英祖は様々な教育を施します、荘献を陥れた
者たちからしてみれば、それは望ましいことではありませんでした。

祘が王になれば、自分たちが報復されることがわかっていたからためです。

そのため、彼らは刺客を放って、祘の命を何度も狙いました。

そのようなこともあって用心深くなった祘は、寝るときも着がえなかった
という逸話が残っています。

1776年に英祖が世を去り、荘献の息子である祘が後を継いで
22代王・正祖として即位しました。王となった彼は、自分が荘献の
息子であることを強調して、父を死に追いやった者は絶対に許さない
という意志を示ししました。

その後、正祖は荘献を陥れた者たちを次々と処罰していきますが、
祖母である貞純(チョンスン)王后だけは罰することができませんでした。

朝鮮王朝時代は儒教を重んじていたため、もし、正祖が祖母を処罰したら、
朝鮮王朝が混乱に陥ることは明白だったからです。

それでも貞純王后を憎む正祖は、彼女のまわりの勢力を一掃しました。

大規模な粛清を行なった正祖は、亡き父のために首都である
漢陽(ハニャン)の南に位置する水原(スウォン)に華城(ファソン)を
造って、そこに荘献の立派な墓を建てました。正祖は、祖父である
英祖が行なっていた「各派閥から公平に人材を登用する政策」を引き継ぎ
人材を育てるために、奎章閣(キュジャンガク)を使いました。

奎章閣は王室の図書館であり、重要な書籍の編纂や文献などの保管を
行なう場所で、有望な若者たちを集めて、様々な研究を行なえる
ようにしました。

最終的には100人以上の学者たちが奎章閣に集まり、正祖の文明開化に
尽くしました。

正祖の功績はそれだけではなく、政治や経済、文化や庶民の生活水準の
向上など、数え切れないほどあります。正祖は48歳で若くして亡くなる
1ヶ月前に五晦筵教(オヘヨンギョ)を発し、「父・思悼世子(サドセジャ)を
殺した老論僻派(ノロンピョッパ)を決して許すことができない」
「南人を重用する」という意志を明らかにしました。

そのため正祖の死は政敵でもある祖母の貞純王后による毒殺だったとも
言われていますが、本当はできもの(今で言う癌)による合併症が
死因だったという意見が大半となっています。

また、正祖の死によって朝鮮の文化開花の時代が終わったとも言われています。

朝鮮の歴史と時代劇

粛宗の次男にあたり、母は和敬淑嬪崔氏あのドラマで有名な
「トンイ」です。

朝鮮王朝の歴代君主中最も長生きした君主であり、在位期間も
およそ52年間と最長記録をもっています。

1699年に延礽君に冊立された。生母・淑嬪崔氏(トンイ)は宮廷の
ムスリ出身(雑事を担当する下女)とされる説もあるが、
実際には針房(チムバン)に所属していた宮女でした。

粛宗は張禧嬪といいトンイといい身分の低い宮中の女性に多く
手をつけたのですね。

生母が賎しい身分のため、延礽君は同じ王子ながらも世子である
異母兄・李昀(景宗)とは全く違う扱いを受けながら育ちました。

熾烈な党争の中で生命の脅威まで感じていた英祖は、王になると
少論派を追い出して老論派を登用したものの、徐々に老論と
少論の均衡政局を作ろうと努力するようになりました。

しかし即位から4年後の1728年、景宗の死で政治的基盤を脅かされた
李麟佐、李有翼らが昭顕世子の曾孫密豊君 李坦を国王に推戴して
武力で英祖と老論を追い出そうと謀る事件が起こりました。

この李麟佐の乱(戊申政変)がきっかけとなり、英祖は再び政治的に
立場の近い老論を重用しました。

英祖は蕩平策の一つの方法として「双挙互対」を実施しました。
これは主要な地位ごとに老論と少論の人物を一緒に登用し、
お互いを牽制させることで政権を独占できないようにするという政策です。

また、1772年には同じ党派に属する家同士の婚姻を禁止しました。

さらに、死刑は必ず3審を経て執行することとする三覆制度を復活させ、
士大夫が私的に刑罰を下す行為を禁止しました。

しかし、このような状況は結局、1762年に王世子(荘献世子)の死を
招くことになりました。英祖の健康悪化のため、荘献世子は1749年から
代理聴政をとるようになりましたが、世子と英祖を離間させようとする
老論と貞純王后の画策もあり、英祖の政治手法を批判したことにされて、
父子の関係が険悪になりました。

世子に関する度重なる悪評を聞いた英祖は、荘献世子を廃世子とし
自害を命じますが、いつまで経っても自害しようとしないため、
しびれを切らした王は、荘献を米びつに閉じ込めて餓死させました。

(壬午士禍)。のちにこれを悔やんだ英祖は世子に「思悼」と
追号するとともに荘献世子の息子(のちの正祖)を王世孫に冊立し、
また後にはこのことを教訓として正祖に代理聴政を行わせ、
老論に牽制されることを前もって防止しました。

英祖は一方で、民が兵役の代わりに税金として納める布帛を2疋から1疋に
減らす均役法を実施して国民の税負担を大きく減らし、国家に対する
義務を身分に応じた負担としました。また朝鮮通信使として日本へ
行った趙曮 (en) が持ち帰ったサツマイモを、凶年の際には主食の
代用とできるようにしました。

学問を好んだ英祖は自ら書籍を執筆するだけでなく、印刷術を改良して
多くの書籍を刊行・頒布させ、民衆の書籍に接する機会を広げました。

英祖のこのような実際的政策の影響で「朝鮮のルネサンス」と呼ばれるほど
大きく成長することとなります。

1776年、老衰のため83歳で薨去しました。

朝鮮の歴史と時代劇

粛宗の長男であり、父の粛宗は彼の誕生を非常に喜んだとされ、
側室の張禧嬪は一旦は王后になりますが後に前の仁顕王后が復位し、
張禧嬪は嬪に降格し、後に仁顕王后が亡くなった時、呪詛したとして
賜死します。

にもかかわらず3歳の時にその子は世子になり、次期国王の座を約束されました。

景宗は非常に聡明で、書道の造詣が深かったといわれています。
しかし、1694年に母が中殿(正妃)から嬪の位に降格され(甲戌換局)、
1701年に刑死したことにより、自分の立場も思い知らされることになります。

1720年、父王の死により即位しました。

彼の治世は老論派が権力を握っていました。

そのため、老論の支持を受けた異母弟の延礽君(後の英祖でトンイの息子)が
1721年に世弟(王位継承者)になりました。

これは景宗自身に子が無く、また健康的な理由から子が望めないという
背景もありましたが、老論が世弟による代理聴政を主張すると、
金一鏡は老論を弾劾し、老論4大臣が流刑に処されました。

1722年に睦虎竜が、老論が景宗を殺害しようと計画したと告げたことから、
老論は没落した(辛壬の獄)。

これにより少論が権力を握ることになりました。

景宗の継室宣懿王后と少論は王族を養子に迎えて延礽君を取り除こうと
企てましたが、その前に景宗が急死して失敗しました。

一説によれば、当時の医学で相剋とされた蟹醤と柿を食べ、
延礽君が医師の反対にもかかわらず参茶を薬として使ったといい、
景宗は老論派の両班によって暗殺されたとも言われています。

満35歳でなくなりました。

朝鮮の歴史と時代劇

1661年8月15日 (旧暦)に顕宗と明聖王后金氏の一人息子として生まれ、
1667年に王世子に冊封、1674年8月に14歳で朝鮮国王に即位しました。

歳は若くても、直接国を統治しました。

三大悪女といわれる張禧嬪(チャン・ヒビン)や「トンイ」が活躍した時代です。

張禧嬪(チャン・ヒビン)は1995年版 (妖婦 張禧嬪)、
『張玉貞(チャン・オクチョン)、愛に生きる』(2013年)「トンイ」(2010年)
などさまざまなドラマで描かれています。

粛宗はたいてい良い王として描かれていますが、本当は王妃を2度も変えた
女ったらしだったんですね。

とにかく粛宗が朝鮮を治めた期間は、朝鮮建国以来、党争が最も激しい
時期でした。

在位中に南人と西人の党派対立関係が激しくなり、1680年、南人の専横に
歯止めをかけたい粛宗が南人を大量に追放した庚申換局(キョンシンファングク)を
契機に、西人が老論と少論に分裂してこれらも互いに党派争いをするようになりました。

粛宗の治世はさまざまな政治論争で一日も静かな日はありませんでした。

仁顕王后を中心にする西人と禧嬪張氏を中心にする南人が対立しました。

仁顕王后が結婚してから6年以上子供を生むことができなかったので、
後宮である禧嬪張氏が生んだ王子を王世子に冊封する問題で、南人と西人が
ひどく対立しました。

結局西人が流配されたり殺されたりして、仁顕王后が廃位される
己巳換局(キサファングク)が1689年に起きました。

この事件で禧嬪張氏は1690年10月22日に王妃となり、彼女の息子は
王世子に冊封され、南人が政権を独占するようになりました。

しかし南人政権の期間も長続きせず、1694年甲戌換局(カプスルファングク)で
反転されました。

その頃粛宗は王妃張氏に対して良くない感情を抱くようになり、
仁顕王后を廃位させたことを後悔していました。

仁顕王后復位を計画した西人は南人によって監獄に閉じこめられていましたが、
粛宗は南人を朝廷より追放して西人を政権につけ、1694年4月12日、
王妃張氏を嬪に降格、そして仁顕王后は王妃に復位しました。

復位6年後に仁顕王后が亡くなると、仁顕王后を呪ったとして1701年10月10日、
禧嬪張氏は賜薬により処刑されました。

宮中では西人と南人の対立が止まず、西人がまた老論と少論で分離して
対立するようになりました。

粛宗はさまざまな党派争いで弱くなった王権を回復し、勢力が強い
朋党の力を弱化させるために、政権党を入れ替える「換局」を3度行いました。

ドラマでは人の良い国王として描かれていたが、実際の粛宗は、
官僚たちを対立させて消耗させるという戦略家の一面を持っていました。

そのおかげで、彼は王権を強化することに成功しました。

粛宗は換局によって朋党内の対立を触発、臣下間の政争を激化させると
同時に王権を強化して国王に対する忠誠心を誘導しました。

そしてこのような換局政治を通じて強化された王権を土台に、
民生安定と経済発展に相当な業績を残しました。

粛宗はまず、光海君以後実施して来た大同法を慶尚道と黄海道まで拡大させ、
初めて全国的に実施するようになりました。

そしてこの時から活発になり始めた商業活動を支援するために常平通宝を作り、
広く使用するように奨励しました。

また、文禄・慶長の役と丙子の役以後、混乱から脱け出すことが
できなかった社会を全般的に収め、整備して安定期を謳歌する
政治功績を残しました。

それから、清と国境紛争が起きると、交渉して1712年咸鏡道観察使李善溥に
白頭山山頂に定界碑を立てさせ、国境を定めたりした。

そして日本に派遣した通信使(朝鮮通信使)に幕府と交渉させ、
日本人の竹島(現在の鬱陵島)への立ち入り禁止を保証させた(竹島一件)。

また通信使を3度派遣(1682年、1711年、1719年)し、倭銀使用条例を
定めることで倭館貿易を整備させました。

その他にも死六臣の名誉回復(1691年)や王位を奪われて亡くなった
魯山君を復位させて端宗という諡号を贈った(1698年)ほか、
廃庶人となった昭顕世子嬪姜氏(粛宗の祖父孝宗の兄・昭顕世子の妃)を
愍懐嬪に復位(1720年)させました。

しかし粛宗の王権強化政策は、政治勢力を徹底的に利用しなければならない
側面があるため、絶対的王権は粛宗の治世で終わりとなり、
粛宗のように力強い王権を持った王は二度と出ませんでした。

1720年、60歳で薨去。在位期間は46年でした。

朝鮮の歴史と時代劇

顕宗は第17代国王孝宗の第1王子です。

外国からの侵略がなく先代の孝宗のおかげで国内情勢も安定して
いましたが、在位15年間中、西人と南人の第1次礼訟論争(1659年)で
父の考宗が亡くなった時、祖父仁祖の息子達より若い継妃の
荘烈王后が何年喪に服すべきかで論争になりました。

南人が上訴して、慈懿大妃の服喪に対して3年説を主張しながら立ち上がり、
猛烈に西人を攻撃しました。

これに対し、西人は、孝宗は仁祖の第2王子なので、継母后である
慈懿大妃の服喪に対しては1年でよいと対抗しました。

南人は再びこれに反駁して、顕宗は王位を継承したので、嫡長子と
違いがないため、3年説が正しいのだと反駁した。結局1年でよいという
西人の主張がとおり、西人はさらに勢力を得るようになりました。

第2次礼訟論争(1674年)では1674年に孝宗妃の仁宣王后が亡くなると、
慈懿大妃の服喪問題を取り巻いて、また西人と南人の間に論争が広がりました。

西人は大功説(9ヶ月)を主張し、南人は朞年説を主張した。

この時は西人の一部が南人側につき、結局今度は南人が主張する朞年説が
採用され、今度は南人が勢力を得ました。

もともと、南人派と西人派は元々はっきりとした学問的対立がありましたが、
この礼論をきっかけに両者の関係は急激に悪化し、ただの論争に終わらず、
粛清が行われました。

派閥間の論争に巻き込まれ、悩まされた王でした。

功績としては、国の財政難を改善させるため、1662年、土地1結につき
米12斗を収めるようにし、山間部では米の代わりに大同木や大同銭で
収めさせる大同法を湖南の山郡にも実施させました。

朝鮮の歴史と時代劇

仁祖の次男で、兄の昭顕世子とともに清で人質生活をすごしたが、
仁祖に毒殺された疑惑がある兄とは違い、完璧な反清主義者になりました。

これは父の仁祖が清の皇帝ホンタイジに跪いて臣下の礼を取らされた
恥辱を忘れずにいたことと、人質にされていたあいだに、清が明を
攻撃する際にあちこちで戦闘に参加させられたり、清の官僚に
侮辱されたりしていたためでした。

この屈辱を晴らすべく、即位後は清を討伐するために北伐計画を西人派の
中心である宋時烈とともに作り上げていきますが、皮肉にも、その軍事力
(特に銃砲等の火力)を清に買われ、黒竜江を超えて南下していた
ロシア勢力の討伐を行う清軍に1654年と1658年の2回軍勢を参加させられました。

丙丁胡乱によって清から搾取され、荒廃した国土を立て直すために
財政難となりました。

考宗も在位10年目にして亡くなってしましまったため計画は途中で
頓挫してしまいました。

「花たちの戦い 宮廷残酷史」では、仁祖と昭顕世子・世子嬪や荘烈王后、
廃貴人 趙氏が跡継ぎ問題で泥沼の駆け引きをしているところを横目で
見ているさめた王子の感がありました。

朝鮮の歴史と時代劇

綾陽君は第14代国王宣祖の庶5男定遠君李琈(元宗)の長男として生まれました。

綾陽君は本来王位を望める立場ではありませんでしたが、明と後金の
両方に尻尾を振る光海君を生ぬるいとする西人派が1623年3月13日、
クーデターによって光海君を廃位し、仁祖を擁立して即位させました(西人の乱)。

翌年、平安道で李适の反乱が起り、後金は一時ソウルを占領しましたが、
間もなく鎮圧された。生き残った者は満州に逃れ、後金に仁祖の王位簒奪を
告げました。

その後、後金は遼西地方にも勢力を拡大して、国号を清と定め、
瀋陽に遷都しました。

皇帝(太宗)を名乗ったホンタイジはこれまで兄弟の関係であった朝鮮に
君臣の関係を結ぶように迫りました。朝廷では和平か宣戦かを議論していましたが、
クーデターの功臣は主和論を主張しましたが、大勢は名分論を振りかざす
主戦論が優勢となり、朝鮮は清皇帝を認めず宣戦を布告することになりました。

ホンタイジは10万の兵を率いてわずか5日目にソウルに攻め込みました。(丙子の役)

仁祖は当初、江華島に逃れて抗戦する予定でしたが、清軍の進撃速度が
あまりに速いため間に合わず、ソウル南方の南漢山城(現・京畿道城南市)に
立てこもりました。南漢山城には14,000の兵力と50日分の食料しかなく、
長期抗戦になったので、45日目に降伏を決め、清軍本営に出向き、
ホンタイジが天子であることを三跪九叩頭の礼によって認めるという
屈辱的な目にあいました。

「花たちの戦い 宮廷残酷史」では最初のシーンで清の皇帝にひれ伏し、
頭を地面に9回打ち付け、額から血を流すシーンが印象的でした。

これ以後、近代に至るまで、朝鮮は清の冊封国となりました。
しかも仁祖の長男、昭顕世子は人質として清に抑留されました。

清軍は50万の朝鮮人捕虜を引き連れて満州に帰還しました。

昭顕世子は瀋陽で8年にわたる抑留生活を送った後、1645年に帰国を
許されました。

しかし、清での生活に慣れ親しんだ昭顕世子を親清であると見た仁祖との
仲は悪化し、世子につらくあたりました。昭顕世子は帰国して2ヶ月で亡くなり、
後に世子嬪やその息子達も殺されました。仁祖は昭顕世子の息子ではなく
世子の弟の鳳林大君(後の第17代国王孝宗)を世子にしました。

このことから現在でも世子の死は仁祖による毒殺だと言われています。
 
歴史ドラマの「花たちの戦い 宮廷残酷史」では廃貴人 趙氏が仁祖が
昭顕世子を嫌っていることもあり、自分の子を世子にするために
宮廷医官を手なずけ、毒針を打って殺し、世子嬪を陥れ、賜死させ、
島送りにされた世孫達も殺してしまうシーンがありました。

朝鮮の歴史と時代劇