韓国時代劇のドラマ『イ・サン』、『三銃士(パク・ダルヒャン)』や映画『王の涙-イ・サンの決断-』の
主人公として有名な正祖(チョンジョ)ですが、王になる前から何度も命の危機にさらされました。
21代王・英祖の息子荘献が世子の時、廃されて米びつに入れられ餓死させられたときその息子である祘(サン)は、必死で「父親を助けてほしい」と懇願しますが、英祖はその願いを受け入れませんでした。
結局、荘献は世子という立場でありながら、米びつの中で餓死するという悲惨な最期を遂げました。
幼かった祘は、父親を陥れた者たちに対して復讐心を抱きました。
世子だった荘献が亡くなったことで、英祖が新たな後継者として祘を指名しました。
立派な後継者にするために英祖は様々な教育を施します、荘献を陥れた者たちからしてみれば、それは望ましいことではありませんでした。
祘が王になれば、自分たちが報復されることがわかっていたからためです。
そのため、彼らは刺客を放って、祘の命を何度も狙いました。
そのようなこともあって用心深くなった祘は、寝るときも着がえなかったという逸話が残っています。
1776年に英祖が世を去り、荘献の息子である祘が後を継いで22代王・正祖として即位しました。王となった彼は、自分が荘献の息子であることを強調して、父を死に追いやった者は絶対に許さないという意志を示ししました。
その後、正祖は荘献を陥れた者たちを次々と処罰していきますが、祖母である貞純(チョンスン)王后だけは罰することができませんでした。
朝鮮王朝時代は儒教を重んじていたため、もし、正祖が祖母を処罰したら、朝鮮王朝が混乱に陥ることは明白だったからです。
それでも貞純王后を憎む正祖は、彼女のまわりの勢力を一掃しました。
大規模な粛清を行なった正祖は、亡き父のために首都である漢陽(ハニャン)の南に位置する水原(スウォン)に華城(ファソン)を造って、そこに荘献の立派な墓を建てました。正祖は、祖父である英祖が行なっていた「各派閥から公平に人材を登用する政策」を引き継ぎ人材を育てるために、奎章閣(キュジャンガク)を使いました。
奎章閣は王室の図書館であり、重要な書籍の編纂や文献などの保管を行なう場所で、有望な若者たちを集めて、様々な研究を行なえるようにしました。
最終的には100人以上の学者たちが奎章閣に集まり、正祖の文明開化に尽くしました。
正祖の功績はそれだけではなく、政治や経済、文化や庶民の生活水準の向上など、数え切れないほどあります。正祖は48歳で若くして亡くなる1ヶ月前に五晦筵教(オヘヨンギョ)を発し、「父・思悼世子(サドセジャ)を殺した老論僻派(ノロンピョッパ)を決して許すことができない」「南人を重用する」という意志を明らかにしました。
そのため正祖の死は政敵でもある祖母の貞純王后による毒殺だったとも言われていますが、本当はできもの(今で言う癌)による合併症が死因だったという意見が大半となっています。
また、正祖の死によって朝鮮の文化開花の時代が終わったとも言われています。