16代王「仁祖」(インジョ)1623~1649年

綾陽君は第14代国王宣祖の庶5男定遠君李琈(元宗)の長男として生まれました。

綾陽君は本来王位を望める立場ではありませんでしたが、明と後金の
両方に尻尾を振る光海君を生ぬるいとする西人派が1623年3月13日、
クーデターによって光海君を廃位し、仁祖を擁立して即位させました(西人の乱)。

翌年、平安道で李适の反乱が起り、後金は一時ソウルを占領しましたが、
間もなく鎮圧された。生き残った者は満州に逃れ、後金に仁祖の王位簒奪を
告げました。

その後、後金は遼西地方にも勢力を拡大して、国号を清と定め、
瀋陽に遷都しました。

皇帝(太宗)を名乗ったホンタイジはこれまで兄弟の関係であった朝鮮に
君臣の関係を結ぶように迫りました。朝廷では和平か宣戦かを議論していましたが、
クーデターの功臣は主和論を主張しましたが、大勢は名分論を振りかざす
主戦論が優勢となり、朝鮮は清皇帝を認めず宣戦を布告することになりました。

ホンタイジは10万の兵を率いてわずか5日目にソウルに攻め込みました。(丙子の役)

仁祖は当初、江華島に逃れて抗戦する予定でしたが、清軍の進撃速度が
あまりに速いため間に合わず、ソウル南方の南漢山城(現・京畿道城南市)に
立てこもりました。南漢山城には14,000の兵力と50日分の食料しかなく、
長期抗戦になったので、45日目に降伏を決め、清軍本営に出向き、
ホンタイジが天子であることを三跪九叩頭の礼によって認めるという
屈辱的な目にあいました。

「花たちの戦い 宮廷残酷史」では最初のシーンで清の皇帝にひれ伏し、
頭を地面に9回打ち付け、額から血を流すシーンが印象的でした。

これ以後、近代に至るまで、朝鮮は清の冊封国となりました。
しかも仁祖の長男、昭顕世子は人質として清に抑留されました。

清軍は50万の朝鮮人捕虜を引き連れて満州に帰還しました。

昭顕世子は瀋陽で8年にわたる抑留生活を送った後、1645年に帰国を
許されました。

しかし、清での生活に慣れ親しんだ昭顕世子を親清であると見た仁祖との
仲は悪化し、世子につらくあたりました。昭顕世子は帰国して2ヶ月で亡くなり、
後に世子嬪やその息子達も殺されました。仁祖は昭顕世子の息子ではなく
世子の弟の鳳林大君(後の第17代国王孝宗)を世子にしました。

このことから現在でも世子の死は仁祖による毒殺だと言われています。
 
歴史ドラマの「花たちの戦い 宮廷残酷史」では廃貴人 趙氏が仁祖が
昭顕世子を嫌っていることもあり、自分の子を世子にするために
宮廷医官を手なずけ、毒針を打って殺し、世子嬪を陥れ、賜死させ、
島送りにされた世孫達も殺してしまうシーンがありました。

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その他のドラマ
三銃士
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15代王「光海君」(カンヘグン)1608~1623年

第14代国王・宣祖の次男(庶子)で、母は宣祖の側室の恭嬪金氏。

第11代国王中宗の曾孫にあたります。なお庶子で長男の臨海君は
気性が激しかったため世子としませんでした。

当時の朝鮮では嫡庶の別や長幼の序は大変厳格でしたが、
国王の宣祖は自身が中宗の庶孫であったため自身の後継者には
嫡流を望んでいました。

ところが正室である懿仁王后は病弱で子がなかったため、1592年、
日本の豊臣秀吉が主導する軍が朝鮮に侵攻して国内が混乱すると(文禄の役)、
一緒に戦っていた庶子で次男である光海君を王世子とせざるを得ませんでした。

 しかし1594年、明から次男であることを理由に世子冊封の要請を拒絶されたため、
正式に世子を決定することはありませんでした。

その後、光海君は父王と協力して日本軍への対応に当たり、1598年に秀吉が死に
日本軍が撤兵すると、戦後は国内の復興に尽力しました。

1602年、懿仁王后が早世すると、宣祖は周囲の反対を押し切って
継室・仁穆王后を迎えました。そして1606年には待望の正室筋の男子である
永昌大君が生まれました。

このため朝廷では世子の座を巡って光海君を推す勢力(大北派)と
永昌大君を推す勢力(小北派)とに別れて激しい党争が起きました。
(北人が分裂して出来た派閥)

1608年、宣祖が世子を決めぬまま亡くなると、幼い永昌大君よりも
実績・年齢の申し分の無い光海君が現実的な選択肢として選ばれ、
光海君が即位しました。

しかし庶子で次男である光海君の政権基盤は不安定で、朝廷内の党争に
巻き込まれました。

光海君自身は大北派を支持していました。 

この大北派は臨海君や幼い永昌大君と彼らを支持していた小北派を謀殺し、
仁穆大妃を廃し幽閉しました。反対派である他の党派(西人、南人)も
粛清した光海君の王位は磐石なものになったと思われました。

また、外交では1609年に日本の江戸幕府と和議を結び(己酉約条)、
民政では大同法を導入するなどの改革を行い、戦乱で疲弊した国内の
建て直しを図りました。

この頃北方ではヌルハチにより後金が建国され勢力を拡大しており、
明は後金討伐のために朝鮮に援軍を求めてきました。光海君は新興の
後金の実力を恐れて出兵を渋ったものの、朝廷では壬辰倭乱・丁酉再乱
(文禄・慶長の役)の際に明から援軍を受けた恩(「再造の恩」)を
重視する名分論が優勢であったため、結局軍を送りました。

しかし1619年、明の後金討伐軍は後金軍に大敗し、後金軍に包囲された
朝鮮の援軍は降伏して捕虜となりました。この後、朝鮮と後金は互いに
国書を交わすこととなり、光海君は明と後金の双方との外交関係を維持
する中立外交政策を採りました。

1623年3月13日、西人派を中心とした勢力は、仁穆大妃と光海君の甥である
綾陽君を担ぎ出し、クーデターを起こしました。光海君は失脚したその
翌日(3月14日)に西人派に連行され、仁穆大妃の前に引き出され、
三十六の項目に達する自らの罪名を読まされた直後廃位され江華島へ
追放されました。 

後継には綾陽君(のちの第16代国王仁祖)が擁立されて即位しました。

その後、西人派政権は大北派を粛清し、外交政策を崇明排清に転換しました。

その十数年後に光海君は済州島に移され、1641年に66歳で死去しました。

近代光海君の功績から、学者の中には光海君は燕山君のような暴君では
なかったようです。

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14代王 宣祖(ソンジョ)在位:1567-1608

即位前は河城君(ハソングン)。父は第11代国王・中宗 恭僖王と
昌嬪安氏の三番目の息子・徳興大院君李岹であり、中宗の孫、
第12代王仁宗と第13代王明宗の甥にあたります。

13代王・明宗(ミョンジョン)には息子が1人いましたが、
1563年に12歳という若さで世を去ってしまいました。

そして選ばれたのが河城君(ハソングン)でした。この河城君が、
1567年に15歳で14代王・宣祖として即位しました。

宣祖は中宗の孫にあたりますが、前の仁宗・明宗の王子ではありません。

宣祖の父は徳興君で中宗の第7庶子ですが、明宗以下の王子は
政略により失脚しています。15歳の若さで王になった宣祖の補佐という名目で
明宗の正妻である仁順(インスン)王后が代理で政治を行ないました。

宣祖が自分で政治を行なうようになったのは16歳からです。

彼は自分が庶子出身だということにコンプレックスを抱いていました。

宣祖は「このままでは正統性を疑われる」と思い、儒教的な価値観に
基づく王道政治にこだわった結果、儒教の理念を重んじる士林(サリム)派の
官僚や学者を重用しまた。しかし、士林派の官僚たちには議論で相手を
論破する癖がありました。

それが原因で東人(トンイン)と西人(ソイン)という2つの派閥に
わかれてしまい、また東人は強硬派の北人と穏健派の南人に分裂したりを
繰り返していました。

こうしているうちに朝鮮王朝は武力的に弱い国になってしまいました。

それもあって、1592年からは日本の豊臣秀吉からの侵攻を受けることに
なります。

朝鮮王国側が壬辰倭乱・日本側が唐入りと称する、いわゆる文禄の役ですが、
跡継ぎ騒動に明け暮れていた朝鮮では軍が有名無実となってしまっており、
日本軍に太刀打ちできず、一時は首都の漢城府(現在のソウル)から追われ
、開城に向かいましたが、ここでは迎えるべき文武官は殆ど逃散し、
また民衆を置いて逃げたということから、国王一行は罵声を浴びせられ、
石を投げつけられたりしました。 

王の一向は平壌さらには義州まで落ち延び、明に救援を求めましたが、
代わりに臨海君、順和君の2王子は捕らえられるという危機的状況に陥りました。

その後、明からの援軍を得て平壌、開城を回復し、続いて漢城府の回復を
目指しましたが、碧蹄館の戦いで日本軍に敗れたため、王都への復帰は
頓挫しました。

それから、日明間で講和交渉が開始されることとなり、日本軍は漢城府から
釜山周辺まで撤退したため、宣祖は王都への復帰を果たすことができました。

しかし朝鮮の頭越しに進められる講和交渉は、朝鮮南部四道の割譲など、
朝鮮には不利な条件が含まれており、朝鮮王朝では、この講和交渉に
反対しました。

日明間の講和交渉が決裂すると再び日本軍から侵攻を受けること
なりますが(慶長の役、丁酉倭乱)、1598年の秀吉の死により日本軍は
撤兵しました。

その後の1607年、日本の江戸幕府に最初の朝鮮通信使を派遣しました。

翌年、56歳で薨去し、後を次男の光海君が後を継ぎました。

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13「明宗」(ミョンジョン)1545~1567年

明宗は11代中宗の文定王后(中宗の後宮で勝ち抜いた)が生んだ息子で
11歳で即位しました。

在位当初から8年間は母親の文定王后尹氏が実権を握り、文定王后は
一族で政権を独占し、賄賂政治で不正を横行させたたため
、社会や政治が混乱しました。

『大長今』では、主人公チャングムの支援者として描かれていますが、
「チャングム」の中でもチャングムに毒殺を依頼していましたが
”私の医は人を生かす医術で人を殺す医術ではありません”と断わりました。

実際にはドラマ『女人天下』で描かれたように後宮の争いを勝ち抜くために
色々な陰謀を企てた怖い王后だったようです。500年の朝鮮王朝でも
「稀代の悪后」と呼ばれる王妃です。

1565年、文定王后がこの世を去った時、悪政の終わりを意味していると
思われました。

事実、明宗は新しい人材を登用して、文定王后の息がかかった奸臣たちを
罷免したりしました。

追放された者の中には、文定王后の弟であった尹元衡(ユン・ウォニョン)も
いました。

彼は明宗にとって叔父でしたが、悪政の象徴のような人物であり、
新しい政治には邪魔となる存在でした。

民衆のための善政を始めた明宗でしたが、わずか2年で命が尽きてしまいました。
1567年に亡くなったときは、33歳の若さでした。

文定王后の悪政に心を非常に痛めていた明宗は、結局は極度のストレスによって
命を縮めてしまいました。

ちなみに「オクニョ 運命の女」では、時々オクニョに会って世間で
起こっていることを調べる王(自分自身)の家来のフリをする役をしていましたね。

実はオクニョとは兄妹だったんですね。でもオクニョ自体は架空の人物です。

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12「仁宗」(インジョン)1544~1545年

仁宗は11代王中宗の章敬王后 尹氏が生んだ息子です。

朝鮮王朝の歴代君主中、最も在位期間が短い君主として知られています。

父親が在世中に改革を試みたが果たせず、遺物として残っていた
宮中の腐敗を撤廃しようと試みました。

その中には中宗時代に趙光祖の提案によって設置され、一度は廃止されていた
賢良科(科挙によらない人材登用制度)の復活も含まれます。

しかし生来病弱であった仁宗は、在世中も病のために、十分には
政務を果たすことができませんでした。

死後、異母弟である文定王后の子慶源大君が第13代国王明宗として
即位しました。

仁宗が手がけようとした政治改革は、多くの家臣たち、特に仁宗の義理の母
文定王后尹氏の弟尹元衡に警戒されました。

仁宗の死後、彼の伯父にあたる尹任をはじめとする「大尹派」と、
文定王后の実兄である尹元老・尹元衡をはじめとする「小尹派」との
勢力争いが起こり、敗れた尹任は1545年に賜死されました。

もともと身体の弱い仁宗だったが、文定王后に毒を盛られたとの話もあります。
仁宗は30歳でその短い生涯を終えました。

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11「中宗」(チュンジョン)1506~1544年 チャングムの王様

第9代成宗の次男で、第10代燕山君の異母弟です。
第7代王の世祖の擁立に功の有った勲臣と、その子孫達で構成されていた
勲旧派のクーデターによって燕山君を廃位に追いやられた後擁立されたが、
勲旧派が強力になりすぎたことを懸念し、燕山君に弾圧された士林派を
引き入れ革新を図りましたが、結局は士林勢力を押さえることができず、
政局は混乱に陥りました。

ところで、中宗の父、成宗は、12人の夫人との間に16男、12女をもうけました。
恭恵(コンヘ)王后・韓(ハン)氏は子を産まずにわずか18歳で亡くなりました。

その後、王妃となった尹(ユン)氏が燕山君を産みます。
やがて尹氏は廃妃となり、代わって貞顕(チョンヒョン)王后・尹氏が晋城大君と
なる中宗を産みました。

中宗は、晋城大君であったときに慎(シン)氏と結婚していました。
中宗の即位にともなって、端敬(タンギョン)王后となります。
しかし、彼女の父親が燕山君の義兄という立場であったため、
クーデターの功臣らによって廃位されてしまいます。

中宗は、彼女の廃位に抵抗しましたが、結局押し切られてしまいます。
2017年11月まで放映されていた「7日の王妃」ではパク・ミニョンが
端敬王后愼氏を ヨン・ウジンが 晋城大君(中宗)イ・ドンゴンが
燕山君を演じていました。

イ・ドンゴンの悪役初めてみました。なかなか合ってましたよ。

中宗は端敬王后愼氏への恋慕の情を抑えがたく、中宗は高い楼閣にのぼって
彼女のいる実家のほうを眺めたといいます。それを聞いた慎氏
(または慎家の人々)は、慎氏の薄紅色のチマ(スカートのような伝統衣装)を
家の裏山の岩に広げて置いたといいます。

王は、そのチマを眺めながら、愛しい人を偲んだという「チマ岩」の伝説が
残っています。

慎氏の後に王妃となった章敬(チャンギョン)王后は、淑儀から王妃に
冊封され、一男(12代王仁宗)一女をもうけますが、産後の肥立ちが
悪く24歳で亡くなってしまいます。

当時の中宗は、端敬王后慎氏と引き離され、その寂しさを敬嬪朴氏へと
向けたのです。

寵愛厚く、彼女は1男(長男)2女をもうけます。

中宗の長男を生んだことにより、彼女は確固たる地位を築きます。
さらに、故郷の実父や実兄もその恩恵を被り中央で任官されます。

章敬王后がお産のために早逝すると、中宗は、敬嬪朴氏を王妃にしようと
しましたが、彼女の出自が低すぎたため王妃の条件には合いませんでした。

章敬王后の後に後宮を勝ち抜いて王妃に冊封されたのが、
章敬王后の遠縁にあたる文定(ムンジョン)王后で章敬王后の生んだ元子
(後の仁宗)を育てながら、1534年に慶源大君を産みました。

しかし、敬嬪朴氏は自分の産んだ王子福城君(ポクソングン)が何と言っても
中宗の長男であることから世子にするよう画策しました。彼女は、
中宗の寵愛を利用して、朝廷での影響力を拡大させていきます。

文定王后との大バトルが勃発していくのです。結局このバトルに敗れた
敬嬪朴氏とその長子は陥れられ、灼鼠の変(1527年)に際し、
木牌の変(1533年)により母親共々処刑されます。

中宗はは38年2ヶ月在位した後、1544年11月14日に長男の仁宗に譲位し、
翌日56歳で死去しました。

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東大門のミリオレの前でみんなでバチバチ美人の写真撮ってました

夜ご飯を食べにミリオレの横の道を歩いていたら、

横の入り口のところに3人の若い女性が囲まれていて
写真をバチバチ撮られていました。

一人はスラットしてめちゃくちゃ整形美人だったけど、
あとの2人はそうでもなかった。

名前も分からないけど、まあ男の人達がバチバチ
写真を撮っているってことは少なくとも一部の人達には
知られてるってことだよね。

あとで名前分かるかも知れないので、一応私も写真とっておきました。

有名になったら(もうすでにかも知れんけど)生写真
持ってるシーって言えるもんね。

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サミクファッションタウン


【出展ソウルナビ】

南大門の「新世界」というデパートの道路をはさんで
「メサ」というファッションビルがあります。

ここは、ここはどちらかというと若者向けもありますが、
おばさんやおじさん向けのファッションを安く
買いたい場合によく使います。

今日はその「メサ」ではなくもう一つ向こうの
三益(サミク)ファッションタウンについて
お話したいと思います。

 

私がいつもお気に入りで購入しているのは
このビルの3階にあるスーツの専門店です。

普通のおばさんぽい物からシャネルのコピーまで
いろいろあります。

まあ、この階に入っているお店はほとんどが
同じオーナーだそうですので、スーツの店であれば
ほとんど同じ物を置いています。

この店の良さは小さいものから大きいものまで
置いていることです。

私のサイズは日本でいうところの15号ですが、
ココでは99(クク)です。

ちなみにサイズは100(ペク)多分日本の
17号ぐらいまであります。
下は日本の7号ぐらいからあります。

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明洞 多味粥に行ってみた

明洞のお粥と言えば栄養粥が一番人気だと思いますが、
SAVOYに泊まっていたので近くの多味粥に行ってみました。

私はかぼちゃ粥(甘くておいしい)8,000ウォン

妹達はアワビ粥15,000ウォンを頼みました。

栄養粥はアワビ粥が12,000ウォンだったのでちょっと高め。
味はあまりどっちもかわらないかな。

辛くて重い食事とマッコリで重~くなった胃には
いい感じです。

でもやっぱり、朝食に15,000ウォン使うのは日本人だけですね。

  

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南大門の激安雑貨・デコレーション卸店

南大門市場で激安デコレーションや雑貨の卸売店みつけました。

でも名前がわからん~
南大門がまん前に見える南大門市場の通りです。

こーんな近く

デコレーションのビーズいっぱい買って、
家にあるアロマディフューザーをデコってみました。


  

ついでに100均で買ったグルーガンで、
ちっちゃいバッグに四葉のクローバーを
付けてみました。

紙袋や、ビニール袋、飾り物の材料、オーガンジーの袋とか
とにかく量が多くて安い。

 

あと、リースとかも作ってあるものもあれば、自分で松ぼっくり
とか、リボンとか付けて、金色のスプレーなんか吹き付ける用の
道具もぜーんぶそろってました。

値段もものすごくリーズナブルで、多分日本の半分ぐらいの
値段で入手できたと思います。

次回はかならず名前を憶えてきますね。

今回は地図を貼っておきます。
文房具店のすぐ近くです。

南大門のまん前の店ですよ~

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