粛宗の長男であり、父の粛宗は彼の誕生を非常に喜んだとされ、側室の張禧嬪は一旦は王后になりますが後に前の仁顕王后が復位し、張禧嬪は嬪に降格し、後に仁顕王后が亡くなった時、呪詛したとして賜死します。
にもかかわらず3歳の時にその子は世子になり、次期国王の座を約束されました。
景宗は非常に聡明で、書道の造詣が深かったといわれています。
しかし、1694年に母が中殿(正妃)から嬪の位に降格され(甲戌換局)、1701年に刑死したことにより、自分の立場も思い知らされることになります。
1720年、父王の死により即位しました。
彼の治世は老論派が権力を握っていました。
そのため、老論の支持を受けた異母弟の延礽君(後の英祖でトンイの息子)が1721年に世弟(王位継承者)になりました。
これは景宗自身に子が無く、また健康的な理由から子が望めないという背景もありましたが、老論が世弟による代理聴政を主張すると、金一鏡は老論を弾劾し、老論4大臣が流刑に処されました。
1722年に睦虎竜が、老論が景宗を殺害しようと計画したと告げたことから、老論は没落した(辛壬の獄)。
これにより少論が権力を握ることになりました。
景宗の継室宣懿王后と少論は王族を養子に迎えて延礽君を取り除こうと企てましたが、その前に景宗が急死して失敗しました。
一説によれば、当時の医学で相剋とされた蟹醤と柿を食べ、延礽君が医師の反対にもかかわらず参茶を薬として使ったといい、景宗は老論派の両班によって暗殺されたとも言われています。
満35歳でなくなりました。