第25代の哲宗王が跡継ぎもなく死去したため、17代孝宗の系統はとだえました。
このため、孝宗の弟(16代仁祖の三男麟坪大君)の八世孫である高宗が王位を継ぎ、その系統が李王家となりました。
麟坪大君の六世孫にあたる南延君(李球)が、恩信君(荘献世子の三男で、第22代王正祖の異母弟)その四男が高宗の実父興宣大院君です。
恩信君の養子になり、王として迎えられました。
現在の李家は彼の血筋です。
日米欧の列強諸国や宮廷内の権力争いの間に翻弄され、国を失った悲劇の皇帝と呼ばれています。
1866年にフランス人神父らを殺害(丙寅邪獄)すると、その報復としてフランス艦隊が軍艦7隻でもって江華島を占領したものの、これを追い払った(丙寅洋擾)事件や、高宗と閔妃が清への事大主義に傾倒していくが、対外政策も
国内政策も混乱を極め、国内では東学党を中心とした勢力が農民の間に広まり、「保国安民」と「弊政改革」を旗頭に1894年、甲午農民戦争(東学党の乱)を勃発させました。
この混乱を朝鮮王朝は収拾できず、清軍へ援軍を依頼、一方日本は邦人保護を理由に軍隊を動員し、日清戦争(1894年-1895年)の原因になり、この戦争は、欧米列強の支持を受けた日本軍の勝利に終わり、下関条約を締結することになりました。
これにより朝鮮は、清の従属国の立場から独立国家として承認されることになりましたが、清の後盾を失った閔妃は、今度はロシアと結んで日本に対抗しようとしました。
この動きを警戒した日本公使・三浦梧楼や開化派、大院君などの勢力が閔妃排斥の動きに出て、1895年10月8日、閔妃暗殺事件(乙未事変)は有名です。
日ロ戦争でロシアが敗退し、ロシアの後ろ盾をなくした高宗は韓国皇室の利益を保全するため日韓協約の締結を推進し、1905年(明治38年)11月、第二次日韓協約(大韓帝国では乙巳保護条約)が締結されました。
この協約によって、韓国の皇室は保持されたが、韓国の外交権は日本に接収されることとなり、事実上、韓国は日本の保護国となりました。
日韓合併後高宗のただ一人の娘であった李徳恵(イ・トッケ)は日本の王族として扱われ、徳恵姫(とくえひめ)となった呼ばれ、1931年(昭和6年)伯爵宗武志(そう たけゆき)へ嫁がされました。
日本の韓国支配は、安重根による伊藤博文暗殺事件を機に最終段階に達し、1910年8月に韓国併合が行われ、韓国は主権を完全に喪失した。日本統治下で、前皇帝高宗はその後も余生を送っていたが、1919年に急死しました。
これは、当時第一次世界大戦後の民族自決の動きに刺激された朝鮮の民族運動を事前に抑えるために、日本が毒殺したのではないか、という疑いが持ち上がり、それが同1919年3月1日の三・一独立運動のきっかけとなったのではと考えられています。