「純宗」(スンジョン)は1874年3月25日誕生、 1926年4月24日崩御しました。
在位は1907年7月20日 – 1910年8月29日です。
父高宗と母は閔妃(ミンビ)の長男としてうまれました。
1907年大韓帝国の皇帝である父がハーグ密使事件を契機に日本によって退位させられたあと2代皇帝となりました。
韓国併合後は大日本帝国の王公族として初代李王。
1910年(明治43)の韓国併合後は,昌徳宮李王とよばれました。
1910年の日韓併合後は昌徳宮(しようとくきゆう)に居住して李王と称されました。
高宗と皇太子の純宗
純宗には子がなかったため、皇太子には異母弟の英親王(李垠)が冊立されました。
7月24日、第三次日韓協約によって、日本は韓国統監府の機能を強化し、国政への干渉を始め立法権・司法権などに干渉出来るようにしました。
8月1日には韓国軍は解散になり、皇帝を護衛する「近衛歩兵隊及び近衛騎兵隊」に再編成された。
これに不満を抱く軍人達から、義兵運動に身を投じる者が増え、反日義兵闘争が活発化しました。
1909年に入ると日韓併合の動きが強まり、李完用総理は一進会などの親日派勢力の後押しを受けて日本政府との間で韓国併合の話を進め、1910年8月22日、日韓併合条約を調印。
8月29日に両国皇帝の裁可をもって条約は発効して大韓帝国は滅亡し、日本の朝鮮総督府の統治下に入りました。
併合後の李坧は、京城府の昌徳宮に住み、王族として李王に封じられました。
大正15年(1926年)4月25日、52歳で薨去しました。日本の王公族昌徳宮李王坧として6月10日に朝鮮王朝の伝統に
則って国葬が執り行われました。