朝鮮王家最後の皇太孫妃の死はあまりにもさびしかった。
他界の便りさえ10日が過ぎた5日に、遅まき知らされました。
大韓帝国最後の皇太子・李垠(イ・ウン)の一人息子である故李玖(イ・グ)氏のジュリア・リー夫人(本名、ジュリア・マロック)が先月26日、米ハワイのハレナニ老人ホームで老衰で死亡しました。94歳でした。
ジュリアはドイツ系アメリカ人で1950年代後半、米ニューヨークで李玖氏に出会いました。
中国系米国人建築家であるイオ・ミン・ペイ(I.M.Pei)の設計事務所でインテリアデザインを担当していたジュリアは職場同僚から独特な東洋人男性を発見しました。
MIT工科大学を卒業した建築家である李玖は繊細で落ち着いた性格で、ジュリアを魅了させ、27歳の李玖氏と35歳のジュリア氏は1958年、結婚しました。
さびしく他国を放浪していた李玖氏に8年年上のジュリア氏が母や姉のように頼りになったのでしょう。
結婚後、夫の赴任地だったハワイに移住しましたが、ジュリア夫人は李玖世子と1963年、日本に滞在していた英親王と李方子様とともに韓国に帰国し、ソウル昌徳宮(チャンドックン)楽斎(ナクソンジェ)に定着しました。(ジュリア氏は写真一番右)
才能が多くて情があふれる気質のジュリア夫人でしたが、見慣れない宮廷生活と王の親戚からの無視に耐えることは大変でした。
ジュリア夫人は姑である李方子が経営する社会福祉法人『明暉園』で障害者を雇用して技術訓練をさせるなど、朝鮮王家の最後の女性として朝鮮のためにつくしました。
事業の失敗後夫の李玖氏は一人で日本へ発ってしまいました。
これを機に宗親会(李氏の親戚の会)は、子孫がいないという理由を挙げて李玖氏に離婚を勧めました。
夫と別居状態だったジュリア夫人は結局、82年に離婚書類にハンを押しました。
彼女に仕事を習った障害者は、ジュリア夫人を「クンオンマ(伯母という意味の韓国語)」と呼んで慕い、離婚後にもジュリア夫人とともに「ジュリアショップ」というブティック店を経営して福祉事業を続けました。
いかなる援助もなく働いていたジュリア夫人は結局、95年にハワイに新しい定着地を用意して韓国を離れました。
子供がいなかったジュリア夫人が楽善斎時代に養子縁組したイ・ウンスク(米国名、ジナ・リー)氏がそばを守りました。
再婚はせず、渡日した後連絡のない前夫・李玖氏を懐かしんでいたようです。
2000年9月、一時帰国したジュリア夫人は1カ月間留まりながら思い出の場所を見回りました。
舅だった英親王の墓地を参拝し、一時奥方として生活していた楽善斎に立ち寄って障害者の弟子に会っています。
李玖に渡したい朝鮮王家の遺物と韓国近代史関連写真450点を徳寿宮(トクスグン)博物館に寄贈しましたが、この時の姿を映したドキュメンタリーが『ジュリアの最後の手紙』というタイトルで放映されました。
そのように会いたがっていた前夫との再会はついに実現しませんでした。
2005年7月16日、東京の旧赤坂プリンスホテルから遺体で発見された夫、李玖氏は20日、韓国に送られ葬儀を行われましたが、ジュリア夫人は招待されませんでした。
楽善斎と宗廟を経て埋葬地に離れる葬儀行列を少し離れた場所から見守るほかはなかったそうです。
こうして一人の男性を愛したからこそ悲運の皇族が無視される遠い異国の地にも運命のようについてきたジュリア夫人の人生が終わりました。
この方の人生も朝鮮王朝に翻弄されたものだったのですね。
離婚後もっと幸せに再婚でもして暮らしていたものと思っていました。