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本当の奇皇后 ドラマ【奇皇后】を視て

出典Lee Kim Production MBC



『奇皇后 〜ふたつの愛 涙の誓い〜』をプライムビデオで第1話から51話まで続けてみてしまいました。
ほぼ一週間釘付けで・・・

「奇皇后」は元々は韓国で2013年から2014年にかけて放送された連続テレビドラマで、14世紀中期に高麗から「貢女」(こんにょ)(女の奴隷)として元に貢物と一緒に連れていかれた現存の人物で、最後には元の順帝の 皇后となった、奇皇后の生涯を描いた作品です。

私としては、高麗人が主人公とは言え、韓国が昔の中国(本当はモンゴル帝国)のような外国の歴史を基に作った作品として不思議な気持ちを持ちながら見ていました。

中国 朝鮮半島 日本の時代比較表
  中国・朝鮮半島・日本の時代比較表

とは言え、「宮廷が韓国風にアレンジされてるじゃん」と思ったのは 私だけかな?

ただ上皇后が王様のことを「チョーナー」ではなく「ファンサン」 と呼んでいたのは少し笑いました。-中国ドラマではどう聞いても「ホァンシャン」なんだけど・・・

発音も中国の宮廷ドラマでは皇帝は「ファンシャン」と発音しているような気がするのですが、わざわざ中国語で呼ぶなら、一番大事な単語ぐらいきちんと発音してよ!

このドラマを見て、いったい本当の奇皇后ってどんな人なのか??

貢女から皇后まで駆け上るのだから、相当な美人か策士かのどちらか、あるいは高麗の貴人だったのかも…

と空想だけがどんどん広がって、調べてみたくなりました。

そこでまずは、ドラマで使われた人物の相関図を示しておきます。

  出典Lee Kim Production MBC

【貢女ってなに?】

ところで、貢女も含む朝鮮半島から中国への貢物は、古くは朝鮮半島が高句麗、百済、新羅が唐に朝貢はするが独立国としての性格をもっていました。

高句麗、百済が唐によって滅亡したころ、新羅が唐に従属する半独立国による支配にかわった7世紀から8世紀ごろから、日清戦争で清がなくなるまで続いた慣習なのだそうです。

高麗の時代が一番盛んで、元の宮廷には140人で、毎年1,2ヵ月間、中国から貢女を選抜する使節団がやってきて、朝鮮でも選抜機関を設置し、貢女を選ぶ期間は全土に婚姻禁止令が下されました。

貢女は性の奴隷として長い間今でいうところの中国に献上されたことから、韓国では歴史的に性奴隷の女性を第三国に出すということに関して屈辱的な感情を持っています。

そのため、第二次世界大戦中の慰安婦に関しても日本人には終わった過去でも、近代のこととして、いまだに大きな問題ととらえられているのです。

とにかく、連れていかれた貢女は民間人だけでなく、下級両班の娘も多く(上級両班はお金を払って免れる)、13~25歳の未婚の処女でなくてはならないため、貢女候補に選ばれると娘の顔に薬を塗り傷を付けケースや出家させる親までいました。

そのため、朝鮮半島では、娘を早く嫁がせる習慣ができました。

たまには幼児を嫁がせることまでありました。

そんなことから、李氏朝鮮時代には朝鮮王が「12歳以下の女子については婚姻を禁ずる」法令を下しました。

それ以外にも元の貴族が自分達の妾にするために連れていかれた貢女は年間1000人にも達したと言われています。

奇皇后ってどんな人

話題をメインの奇皇后(きこうごう)にかえますね。

生まれたのは1315年頃 – 1369年もしくは1370年以降)は、14世紀の元朝最後の皇帝である順帝トゴン・テムルの皇后で、出生は幸州奇氏。

後の北元(明によって滅亡しますが)皇帝アユルシリダラを 生んだ人です。

もともと高麗人の下級両班・奇子敖の娘で、高麗貢女として元廷に献上されました。

熱心な仏教徒だった奇氏は、に渡ってからも寺に行って 仏に祈っていました。

そこで、同じく仏教徒だった高麗出身の宦官である龍晋と出会いました。

高龍晋は、順帝の世話ができる若い女性をさがしており、高龍晋の眼鏡にかなったので、宮女とし最初は順帝 (【奇皇后】ではタファン-在位1333年)の食膳の給仕などをさせられていましたが、相当美しい娘だったらしく、次第に順帝の寵愛を得るにいたりました。

順帝には最初キプチャク族出身のタナシルリ皇后がいて、奇氏は嫉妬にかられたタナシルリからたびたび嫌がらせを受けましたが、うまい具合に1335年タナシルリの兄が謀反罪で死刑になりました。

タナシルリも謀反に加担したとして死刑になりました。

その後1337年順帝には武宗カイシャンの皇后であった真哥皇后の姪で毓徳王ボロト・テムル(孛羅帖木児)の娘であったコンギラト部出身のバヤン・クトゥク(伯顔忽都)皇后が冊立され、奇氏は次皇后となりました。

次皇后としての奇氏

バヤン・クトゥク皇后は皇子を1人生みましたが、2歳で夭折しています。

ドラマの【奇皇后】とはちがいバヤン・クトゥク皇后はよくでた人物で、次皇后・奇氏が順帝の寵愛を得ても嫉妬ひとつせず、飢饉で多くの死者が出たときには私財を投じて餓死者の埋葬や供養に当たったとされています。

奇氏はやがて待望の皇子アユルシリダラを生み、皇子は1353年皇太子に冊立されました。

これ以後、奇氏は元朝皇太子生母として権勢を振るうようになりました。

後にこのアユルシリダラも高麗の福安府院君権謙如の娘を娶ることになります。

奇皇后は実は高麗をうらんでいた

高麗では下級両班の家柄でしたが、その娘が高麗王よりも高位である元朝次皇后・ 皇太子生母になったことから、奇氏一門が権勢を振るうようになりました。

彼女の一族は、これを良いことに民から搾取のやり放題でした。

1351年反元の志を抱いて高麗王に即位した恭愍王はこれを快く思わず、1356年に奇氏一門を誅殺しました。

それを恨んだ奇皇后は恭愍王の廃位を順帝に働きかけ、皇太子にも「祖父の仇を取れ」と吹き込んだということです。

1363年、順帝はついに恭愍王を廃位し、当時元の都、大都に滞在していた高麗王族を高麗王とする勅書を発し、兵1万を付けて高麗に向かわせました。

しかし、鴨緑江を超えた元軍は高麗の伏兵にさんざんに打ち破られて逃げ帰り、奇后の面目は丸潰れとなってしまいました。

正皇后としての奇皇后

奇皇后は以前から、政治に身を入れず酒色に耽る順帝に愛想を尽かし、皇位を息子の皇太子アユルシリダラに譲位させたがっていました。

1365年には偽勅を発して大原の実力者、ココ・テムルの軍を動員し、順帝に迫ろうとしましたが、ココ・テムルに気付かれて巧くいきませんでした。

それでも后妃の地位を廃されなかったのですから、皇太子生母の立場は強いものであったに違いありません。

まもなく正皇后バヤン・クトゥクが死去したことにより、次皇后の地位にあった奇氏は正皇后に昇格しました。

奇氏がバヤン・クトゥク皇后の死後、その宮室に行ってみると、派手好きな奇皇后とはちがい、質素な生活の跡を見て、「皇后がこのようなボロの服を着ていたとは」と、蔑んだといわれています。

ここまでくると、ドラマと違って奇皇后より、あのわがまま娘だったタナシルリのほうが可愛く見えてくるのは私だけでしょうか?

奇皇后と元の最期

1368年朱元璋の明軍が大都郊外の通州に迫ると、順帝は奇皇后や皇太子を引き連れて大都からさっさと逃げ去り、元朝の中国支配はあっけなく終わってしまいました。

順帝は内モンゴルの応昌に逃れて再起を期していましたが、1370年にこの地で没し、皇太子のアユルシリダラが後を継いで照宗皇帝となりました。

奇皇后は北元の皇太后になりましたがこの頃実は明の捕虜になり亡くなったという説もあります。

しかし、実際いつ亡くなったのかは知られていません。

それでも北元には、遼東方面には20万の大軍を擁する元太尉ナガチュの勢力が残存しており、北元は高麗にも圧力を加え続けていました。

やがて北元の昭宗アユルシリダラは明軍に追われてカラコルムに逃れ、1378年にこの地で没しました。

その後を継いだのは昭宗の異母弟とも言われるトグス・テムル(北元の天元帝)です。

北元が頼みにしていた満州に勢力を有する大尉ナガチュが1387年、明の圧力に抗しきれず投降すると、北元の命運は尽き、1388年、カラコルムを明軍に襲撃されたトグス・テムルは 逃亡する途中、アリクブカの後裔イェスデルに殺害され、北元は滅びました。

なんか、奇皇后は元が滅びたことに大きな影響を与えた気がしてしょうがないわたくしです。

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おまけ タルタルは実在人物?

私はこのドラマ【奇皇后】のなかでもタルタルが一番好きです。

なんと、タルタルもその叔父であるぺガンも基になる人物はいたのです。

中でも、タルタルの基になる人物は、トクトという人で(モンゴル語でToktoghaと発音し、生存時期は、延祐元年(1314年)- 至正15年12月8日(1356年1月10日)です。

7ルキト部の出身で、マジャルタイ(中国語版)の長男 として生まれました。


この辺

幼少の頃に伯父バヤンの養子となり、 天暦元年(1328年)、15歳で皇太子 アリギバの ケシク(王族の親衛隊)と、ダルガチ(官職)に任じられ、

翌天暦2年(1329年)、文宗トク・テムルに拝謁して気に入られ、内宰司丞を加えられるほどでした。

同年5月に府正司丞に任じられ、至順2年(1331年)には虎符(参戦する将軍が兵を徴発する時の証明として天子から与えられた銅製の割符)を授けられ、忠翊侍衛親軍都指揮使に任じられました。

17歳ですよ~。

信じられないくらいのスピード出世ですね!

元統3年(1335年)に中書左丞相のテンギスが反乱を起こすと、その叔父挙兵しましたが、これを捕らえた褒美として、またまた出世しました。

至元4年(1338年)に御史大夫(丞相の副として朝政を補佐する上卿)に任じられました。

しかしバヤンが専横を極めたため、父のマジャルタイ・師の呉直方に相談した上でバヤンを疎ましく思っていた大ハーンの恵宗トゴン・テムルと結んで至元6年(1340年)2月にクーデターを起こし、バヤンを追放しました。

以降もトクトは中書右丞相となり、至正3年(1343年)3月には遼・金・宋三史編纂の都総裁官に任じられ、至正4年(1344年)に『金史』『遼史』を、至正5年(1345年)に『宋史』をそれぞれ完成させました。

様々な功績を収め中書左丞相(王朝で君主を補佐し最高位の官職)にまで昇りつめたトクトですがちまたでは、大規模な土木工事は恩恵を受けない江南の民衆が堕落した朝廷に対し不満をつのらせ、この不満を煽り、白蓮教主の韓山童を初めとして各地で蜂起が発生するようになりました。

至正11年(1351年)8月、蜂起した芝麻李らが徐州を奪い、王を自称すると、トクトは至正12年(1352年)9月、10数万の兵を率いて徐州を攻め、芝麻李率いる敵を壊滅に落ち込ませました。

この戦功により太師(天子の師となり補佐する大臣)に封じられました。

至正14年(1354年)に再び紅巾の乱の鎮圧に向かいましたが、高郵の張士誠を討伐中、トクトに不満を持っていた皇太子アユルシリダラと奇皇后に恵宗の寵臣ハマが讒言して動かしたことで弾劾を受けて追放されました。

ドラマ【奇皇后】では最後まで奇皇后とは味方同士だったんですけど・・・

やがて身柄を淮安に移されますたが、3月に雲南に流刑となってその護送中、ハマが「自害せよ」という恵宗の偽詔を発したため、自ら鴆毒を仰いました。

ドラマの中では、明と戦って戦死したことに なっていますが、結局奇皇后とアユルシリダラ に殺されたんですね。

トクトの失脚により討伐軍は壊滅状態になり、また実力者を失った朝廷も収拾が付かなくなり、結局奇皇后とアユルシリダラが元を壊滅させる羽目に陥りました。

しかし、7年後の至正22年(1362年)にハマらが処刑されると名誉回復がなされました。

やっぱりタルタルはチェゴ(最高!)の軍人だったんですね。

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