「李垠」(イ・ウン)の死後は、その息子「李玖」(イ・グ)が李家当主になりました。
1931年(昭和6年)李王垠とその妃方子女王の第2子として誕生しました。
兄晋は夭折していたため、玖が王世子となりました。第二次世界大戦後、日本国憲法施行に伴い王公族の地位を喪失し、日本の主権回復とともに日本国籍を喪失したこともあり戦後は米国への留学を熱望するようになりました。
学習院高等科卒業後、アメリカのマサチューセッツ工科大学に留学して建築学を学び、1958年10月、ヨーロッパ系アメリカ人女性のジュリア・マロックと結婚してアメリカに帰化しました。
1963年(昭和38年)、両親の韓国帰国に際して同行しました。
両親・妻とともに昌徳宮楽善斎に居住し、同国の実業家になりましたが、経営していた新韓航空が1979年に倒産、以後は日本(主に東京)で生活を送ることになりました。
婦人との間に子がなかったことから、韓国の李氏宗親会等の勧めで1982年にジュリア夫人と離婚しました。
1996年、全州李氏大同宗約院の総裁に就任したことで、韓国へ永住帰国しました。
しかし事業への失敗等から再び日本へ戻り、同族会からの援助で生活を送りますが、やがて送金が停止されました。
2005年に知人の援助を得て、かつての李王家邸であった赤坂プリンスホテルに宿泊しますが、滞在約1ヶ月が経過した2005年7月16日、心臓麻痺のため同ホテルで死去しました。
子供がなかったため、李王垠とその妃方子女王の直系子孫は断絶しました。
「李玖」のあとは、李玖の伯父・第26代国王「高宗」の第5男子「李堈」の孫(庶子)にあたる「李源」が彼の養子に指名され、李家を継ぐことになりました。
李源はヒュンダイホームショッピングの児童スポーツ部長でしたが、退社し、現在は王家の祭事を色々と行っているということです。