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第7王「世祖」(セジョ)1455~1468年

第4代国王世宗の第2王子であり、第3代国王太宗の孫でした。

1452年に兄の文宗が没し、自らの甥にあたる端宗が11歳で即位すると、弟の錦城大君とともに王を補佐する役割を担いますが、弟の安平大君や端宗を補佐する大臣らを除いて政権を掌握しました。(癸酉靖難)

1454年にもう一人の弟、錦城大君も配流とし、1455年には第三代王の太祖の長男の譲寧大君らの後押しにより自ら端宗に退位を強要し、39歳で即位しました。

王位に就くと、上書を書いたり、また王宮の広場で座り込んで訴訟をする反対勢力を拷問や股裂きの刑罰等でことごとく粛清し、領議政・右議政・左議政の三議政が六曹と協議し、その結果を国王に上奏する方式である「議政府署事制」を廃して、再び明の制度を手本として作られた省庁を王が直接統括する制度である「六曹直啓制」を復活、
王権を自身の元に集約しました。

また、甥で上王であった端宗を同年6月に魯山君に降格し同年11月に配流先で賜薬により死刑にしました。

あの公明正大な大王世宗の息子とは思えないほど猟奇的な王でした。

どちらかというと、祖父に当たる太祖(兄弟を殺戮して王の座についた)に似ていますね。

晩年には自身の身体の皮膚が徐々に癩病(現在でいうハンセン病)に侵されるようになり、1468年9月7日に次男の海陽大君(のちの睿宗)に王位を譲って上王となりましたが、翌日に52歳(数え年)で薨去しました。

世祖の功績としては、強力な王権を維持するため、官制の改革、法制や軍制の充実に努め、朝鮮王朝の基本法典である「経国大典」*の編纂を開始しました。

*太祖時代の『続六典』を踏まえ、世祖は「万世の法」としての「六典」の編纂を臣下に命じ、世祖在位中の1466年にほぼ完成するも、正式な制定には至らなかった。

編纂事業は睿宗・成宗代に引き継がれ、今日伝わる『経国大典』は、1485年正月に頒布されたものである。

完成施行まで、建国からほぼ一世紀を要した『経国大典』は、儒教的法治国家としての朝鮮王朝の原点をなす法体系である。