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第18代王「顕宗」(ヒョンジョン)1659~1674年

顕宗は第17代国王孝宗の第1王子です。

外国からの侵略がなく先代の孝宗のおかげで国内情勢も安定していましたが、在位15年間中、西人と南人の第1次礼訟論争(1659年)で父の考宗が亡くなった時、祖父仁祖の息子達より若い継妃の荘烈王后が何年喪に服すべきかで論争になりました。

南人が上訴して、慈懿大妃の服喪に対して3年説を主張しながら立ち上がり、猛烈に西人を攻撃しました。

これに対し、西人は、孝宗は仁祖の第2王子なので、継母后である慈懿大妃の服喪に対しては1年でよいと対抗しました。

南人は再びこれに反駁して、顕宗は王位を継承したので、嫡長子と違いがないため、3年説が正しいのだと反駁した。結局1年でよいという西人の主張がとおり、西人はさらに勢力を得るようになりました。

第2次礼訟論争(1674年)では1674年に孝宗妃の仁宣王后が亡くなると、慈懿大妃の服喪問題を取り巻いて、また西人と南人の間に論争が広がりました。

西人は大功説(9ヶ月)を主張し、南人は朞年説を主張した。

この時は西人の一部が南人側につき、結局今度は南人が主張する朞年説が採用され、今度は南人が勢力を得ました。

もともと、南人派と西人派は元々はっきりとした学問的対立がありましたが、この礼論をきっかけに両者の関係は急激に悪化し、ただの論争に終わらず、粛清が行われました。

派閥間の論争に巻き込まれ、悩まされた王でした。

功績としては、国の財政難を改善させるため、1662年、土地1結につき米12斗を収めるようにし、山間部では米の代わりに大同木や大同銭で収めさせる大同法を湖南の山郡にも実施させました。