第9代成宗の次男で、第10代燕山君の異母弟です。
第7代王の世祖の擁立に功の有った勲臣と、その子孫達で構成されていた勲旧派のクーデターによって燕山君を廃位に追いやられた後擁立されたが、勲旧派が強力になりすぎたことを懸念し、燕山君に弾圧された士林派を引き入れ革新を図りましたが、結局は士林勢力を押さえることができず、政局は混乱に陥りました。
ところで、中宗の父、成宗は、12人の夫人との間に16男、12女をもうけました。
恭恵(コンヘ)王后・韓(ハン)氏は子を産まずにわずか18歳で亡くなりました。
その後、王妃となった尹(ユン)氏が燕山君を産みます。
やがて尹氏は廃妃となり、代わって貞顕(チョンヒョン)王后・尹氏が晋城大君となる中宗を産みました。
中宗は、晋城大君であったときに慎(シン)氏と結婚していました。
中宗の即位にともなって、端敬(タンギョン)王后となります。
しかし、彼女の父親が燕山君の義兄という立場であったため、クーデターの功臣らによって廃位されてしまいます。
中宗は、彼女の廃位に抵抗しましたが、結局押し切られてしまいます。
2017年11月まで放映されていた「7日の王妃」ではパク・ミニョンが端敬王后愼氏を ヨン・ウジンが 晋城大君(中宗)イ・ドンゴンが燕山君を演じていました。
イ・ドンゴンの悪役初めてみました。なかなか合ってましたよ。
中宗は端敬王后愼氏への恋慕の情を抑えがたく、中宗は高い楼閣にのぼって彼女のいる実家のほうを眺めたといいます。それを聞いた慎氏(または慎家の人々)は、慎氏の薄紅色のチマ(スカートのような伝統衣装)を家の裏山の岩に広げて置いたといいます。
王は、そのチマを眺めながら、愛しい人を偲んだという「チマ岩」の伝説が残っています。
慎氏の後に王妃となった章敬(チャンギョン)王后は、淑儀から王妃に冊封され、一男(12代王仁宗)一女をもうけますが、産後の肥立ちが悪く24歳で亡くなってしまいます。
当時の中宗は、端敬王后慎氏と引き離され、その寂しさを敬嬪朴氏へと向けたのです。
寵愛厚く、彼女は1男(長男)2女をもうけます。
中宗の長男を生んだことにより、彼女は確固たる地位を築きます。
さらに、故郷の実父や実兄もその恩恵を被り中央で任官されます。
章敬王后がお産のために早逝すると、中宗は、敬嬪朴氏を王妃にしようとしましたが、彼女の出自が低すぎたため王妃の条件には合いませんでした。
章敬王后の後に後宮を勝ち抜いて王妃に冊封されたのが、章敬王后の遠縁にあたる文定(ムンジョン)王后で章敬王后の生んだ元子(後の仁宗)を育てながら、1534年に慶源大君を産みました。
しかし、敬嬪朴氏は自分の産んだ王子福城君(ポクソングン)が何と言っても中宗の長男であることから世子にするよう画策しました。彼女は、中宗の寵愛を利用して、朝廷での影響力を拡大させていきます。
文定王后との大バトルが勃発していくのです。結局このバトルに敗れた敬嬪朴氏とその長子は陥れられ、灼鼠の変(1527年)に際し、木牌の変(1533年)により母親共々処刑されます。
中宗はは38年2ヶ月在位した後、1544年11月14日に長男の仁宗に譲位し、翌日56歳で死去しました。