第14代国王・宣祖の次男(庶子)で、母は宣祖の側室の恭嬪金氏。
第11代国王中宗の曾孫にあたります。なお庶子で長男の臨海君は気性が激しかったため世子としませんでした。
当時の朝鮮では嫡庶の別や長幼の序は大変厳格でしたが、国王の宣祖は自身が中宗の庶孫であったため自身の後継者には嫡流を望んでいました。
ところが正室である懿仁王后は病弱で子がなかったため、1592年、日本の豊臣秀吉が主導する軍が朝鮮に侵攻して国内が混乱すると(文禄の役)、一緒に戦っていた庶子で次男である光海君を王世子とせざるを得ませんでした。
しかし1594年、明から次男であることを理由に世子冊封の要請を拒絶されたため、正式に世子を決定することはありませんでした。
その後、光海君は父王と協力して日本軍への対応に当たり、1598年に秀吉が死に日本軍が撤兵すると、戦後は国内の復興に尽力しました。
1602年、懿仁王后が早世すると、宣祖は周囲の反対を押し切って継室・仁穆王后を迎えました。そして1606年には待望の正室筋の男子である永昌大君が生まれました。
このため朝廷では世子の座を巡って光海君を推す勢力(大北派)と永昌大君を推す勢力(小北派)とに別れて激しい党争が起きました。(北人が分裂して出来た派閥)
1608年、宣祖が世子を決めぬまま亡くなると、幼い永昌大君よりも実績・年齢の申し分の無い光海君が現実的な選択肢として選ばれ、光海君が即位しました。
しかし庶子で次男である光海君の政権基盤は不安定で、朝廷内の党争に巻き込まれました。
光海君自身は大北派を支持していました。
この大北派は臨海君や幼い永昌大君と彼らを支持していた小北派を謀殺し、仁穆大妃を廃し幽閉しました。反対派である他の党派(西人、南人)も粛清した光海君の王位は磐石なものになったと思われました。
また、外交では1609年に日本の江戸幕府と和議を結び(己酉約条)、民政では大同法を導入するなどの改革を行い、戦乱で疲弊した国内の建て直しを図りました。
この頃北方ではヌルハチにより後金が建国され勢力を拡大しており、明は後金討伐のために朝鮮に援軍を求めてきました。光海君は新興の後金の実力を恐れて出兵を渋ったものの、朝廷では壬辰倭乱・丁酉再乱(文禄・慶長の役)の際に明から援軍を受けた恩(「再造の恩」)を重視する名分論が優勢であったため、結局軍を送りました。
しかし1619年、明の後金討伐軍は後金軍に大敗し、後金軍に包囲された朝鮮の援軍は降伏して捕虜となりました。この後、朝鮮と後金は互いに国書を交わすこととなり、光海君は明と後金の双方との外交関係を維持する中立外交政策を採りました。
1623年3月13日、西人派を中心とした勢力は、仁穆大妃と光海君の甥である綾陽君を担ぎ出し、クーデターを起こしました。光海君は失脚したその翌日(3月14日)に西人派に連行され、仁穆大妃の前に引き出され、三十六の項目に達する自らの罪名を読まされた直後廃位され江華島へ追放されました。
後継には綾陽君(のちの第16代国王仁祖)が擁立されて即位しました。
その後、西人派政権は大北派を粛清し、外交政策を崇明排清に転換しました。
その十数年後に光海君は済州島に移され、1641年に66歳で死去しました。
近代光海君の功績から、学者の中には光海君は燕山君のような暴君ではなかったようです。