即位前は河城君(ハソングン)。父は第11代国王・中宗 恭僖王と昌嬪安氏の三番目の息子・徳興大院君李岹であり、中宗の孫、第12代王仁宗と第13代王明宗の甥にあたります。
13代王・明宗(ミョンジョン)には息子が1人いましたが、1563年に12歳という若さで世を去ってしまいました。
そして選ばれたのが河城君(ハソングン)でした。この河城君が、1567年に15歳で14代王・宣祖として即位しました。
宣祖は中宗の孫にあたりますが、前の仁宗・明宗の王子ではありません。
宣祖の父は徳興君で中宗の第7庶子ですが、明宗以下の王子は政略により失脚しています。15歳の若さで王になった宣祖の補佐という名目で明宗の正妻である仁順(インスン)王后が代理で政治を行ないました。
宣祖が自分で政治を行なうようになったのは16歳からです。
彼は自分が庶子出身だということにコンプレックスを抱いていました。
宣祖は「このままでは正統性を疑われる」と思い、儒教的な価値観に基づく王道政治にこだわった結果、儒教の理念を重んじる士林(サリム)派の官僚や学者を重用しまた。しかし、士林派の官僚たちには議論で相手を論破する癖がありました。
それが原因で東人(トンイン)と西人(ソイン)という2つの派閥にわかれてしまい、また東人は強硬派の北人と穏健派の南人に分裂したりを繰り返していました。
こうしているうちに朝鮮王朝は武力的に弱い国になってしまいました。
それもあって、1592年からは日本の豊臣秀吉からの侵攻を受けることになります。
朝鮮王国側が壬辰倭乱・日本側が唐入りと称する、いわゆる文禄の役ですが、跡継ぎ騒動に明け暮れていた朝鮮では軍が有名無実となってしまっており、日本軍に太刀打ちできず、一時は首都の漢城府(現在のソウル)から追われ
、開城に向かいましたが、ここでは迎えるべき文武官は殆ど逃散し、また民衆を置いて逃げたということから、国王一行は罵声を浴びせられ、石を投げつけられたりしました。
王の一向は平壌さらには義州まで落ち延び、明に救援を求めましたが、代わりに臨海君、順和君の2王子は捕らえられるという危機的状況に陥りました。
その後、明からの援軍を得て平壌、開城を回復し、続いて漢城府の回復を目指しましたが、碧蹄館の戦いで日本軍に敗れたため、王都への復帰は頓挫しました。
それから、日明間で講和交渉が開始されることとなり、日本軍は漢城府から釜山周辺まで撤退したため、宣祖は王都への復帰を果たすことができました。
しかし朝鮮の頭越しに進められる講和交渉は、朝鮮南部四道の割譲など、朝鮮には不利な条件が含まれており、朝鮮王朝では、この講和交渉に反対しました。
日明間の講和交渉が決裂すると再び日本軍から侵攻を受けることなりますが(慶長の役、丁酉倭乱)、1598年の秀吉の死により日本軍は撤兵しました。
その後の1607年、日本の江戸幕府に最初の朝鮮通信使を派遣しました。
翌年、56歳で薨去し、後を次男の光海君が後を継ぎました。