仁祖の次男で、兄の昭顕世子とともに清で人質生活をすごしたが、仁祖に毒殺された疑惑がある兄とは違い、完璧な反清主義者になりました。
これは父の仁祖が清の皇帝ホンタイジに跪いて臣下の礼を取らされた恥辱を忘れずにいたことと、人質にされていたあいだに、清が明を攻撃する際にあちこちで戦闘に参加させられたり、清の官僚に侮辱されたりしていたためでした。
この屈辱を晴らすべく、即位後は清を討伐するために北伐計画を西人派の中心である宋時烈とともに作り上げていきますが、皮肉にも、その軍事力(特に銃砲等の火力)を清に買われ、黒竜江を超えて南下していたロシア勢力の討伐を行う清軍に1654年と1658年の2回軍勢を参加させられました。
丙丁胡乱によって清から搾取され、荒廃した国土を立て直すために財政難となりました。
孝宗も在位10年目にして亡くなってしましまったため計画は途中で頓挫してしまいました。
「花たちの戦い 宮廷残酷史」では、仁祖と昭顕世子・世子嬪や荘烈王后、廃貴人 趙氏が跡継ぎ問題で泥沼の駆け引きをしているところを横目で見ているさめた王子の感がありました。