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百済の最期 「ケペク」を見終えて

テレビ愛知の朝の韓国ドラマで放映していた「ケペク」が最終話を迎えました。

これまで何度も放映されていましたが朝鮮時代にしか興味のなっかったわたしは、無視を続けて、今回初めて見ることになりました。

理由はただ単にほかに まだ見ていない歴史ドラマをやっていなかった為です。

正直、百済に関するドラマだということさえ知りませんでした。

内容は、イ・ソジン扮するケペクが寺の奴婢から大将軍に登り詰め最後には愚かな王と元恋人だった女王の陰謀(自分と自分の王子を唐に世子と認めさせるために新羅と通じた)為に百済とともに散っていくという話です。

歴史によれば、羅済同盟により百済と新羅は互いに力を合わせ、ある時は共に国防にあたり、またこの時期になると国力が弱まった高句麗を活発に攻撃しました。

ところが百済が漢江流域の領土を確保すると、新羅の真興(チヌング)王は120年もの間続いた同盟を破って百済を攻撃し漢江流域を占領し、これに対して百済の聖(ソング)王は554年、軍を整備して新羅を攻撃しましたが時すでに遅し、管山城(現在の忠清北道玉川)で大敗を喫し自身も戦死してしまう。

これにより百済は危機に陥り、これを見た高句麗が百済の熊川城を攻撃しました。

しかし、この攻撃は聖王の後を継いだ威徳(ウィドク)王が無事に防ぎきり威徳王は聖王の戦死を雪辱と勢力の回復を図るため新羅を度々攻撃しました。

また、中国と積極的に外交交渉を行い中国の多くの国々に使臣を送りました。

威徳王が亡くなったその後は、恵(へ)王と法(ボッブ)王が即位しましたが、際立った業績もないまま2年で次々とこの世を去り武(ム)王が王位につきました。

武王は新羅をしきりに攻撃しながら同時に隋に朝貢し、高句麗を討伐する様にしきりに出陣を要請ました。

しかし隋はこの時百済の要請には応ぜず、代わりに韓半島の三国が争わないように命じました。

618年に隋が唐に変わると百済を先頭に韓半島の三国は互いに使臣を送り、624年唐の高祖は武王を“帯方郡百済王”に封じました。

武王は軍を整備し新羅に奪われた領土を取り戻そうとましたが唐の中止命令により果たすことが出来ませんでした。

この様に武王は国の勢力を回復させるために中国(隋・唐)に対し懸命な外交努力を行いました。

また、新羅の攻撃に備え高句麗と同盟を結んだりもしました。

しかし、晩年は奢侈と享楽に溺れ百済滅亡の原因となりました。

641年武王が亡くなり義慈(ウィジャ)王が即位しました。

義慈王は英邁で父母に対しても孝道を尽くし、兄弟に対する思いやりも深く、多くの人々から尊敬されました。

義慈王はケペクを重用し、王位に就いた翌年には新羅を攻め40余城を陥落させ、その後、当項城・大耶城・腰車城などを攻撃し新羅を苦境に陥らせるなど国威の発揚に力を注ぎました。

連勝を続けた義慈王は次第に傲慢になり贅沢を好み享楽にふける様になって行きました。

朝廷では王の周辺は忠臣よりも奸臣たちにより固められただけでなく、ケペクを解任し忠臣が真心をこめて王に諫言を呈してもかえって王の恨みを買い多くの忠臣が朝廷を去って行きました。

佐平の役職にいた成忠(ソングチュング)は泣きながら義慈王を諌めようとしました。

ところが王は一向に聞かず佐平を追い返してしまったのです。

成忠が下がると奸臣たちや後宮の女官たちは、先を争ってつぎつぎに成忠の陰口を言い始めた。

王は彼らの言葉を鵜呑みにして成忠を投獄し、成忠は断食をしながらもいつ来るかもしれない他国からの攻撃に備える方法を血書に残して亡くなりました。

『…万一他国が攻めて来たら水軍は伎伐浦(ギバルポ=錦江の入口)の丘を越えさせてはならず、陸路軍は炭(タンヒョン=忠清南道、錦山と完州の境界の丘)を越えさせてはならない。』

しかし、成忠の遺書は途中で奸臣たちの手により義慈王へ伝えられることはありませんでした。

その間に新羅では真徳(チンドク)女王が亡くなり、新羅で最初の真骨出身(新羅の身分制度は骨品制度と言い、真骨は聖骨に次ぐ身分ではあるが、それ以前の王はすべて聖骨出身であった)である金春秋(キムチュンジュ)が大臣たちの推薦で太宗武烈(テジョングムヨル)王となりました。

そして、金春秋が実際に唐へ行って積み上げた対中国への政策が実を結んだのです。

この様な周辺の状況も知らないまま義慈王は更に放蕩生活に溺れて行きました。

百済の状況を把握した新羅の太宗武烈王は唐に援兵を請い660年に羅唐連合軍が形成され百済攻撃を始めました。

羅唐連合軍が堰を切ったように押し寄せてくると、ようやく自らの過ちに気がついた義慈王はそこで初めて今までの自分の愚かを悔やみ、階伯(ケペク)将軍を召還し、兵を備え敵の攻撃に対抗しようとしたが、既に綱紀が緩んでいる上に18万の羅唐連合の攻撃を前にして充分な対抗が出来る状況ではありませんでした。

唐の蘇定方が率いた13万の大軍は既に伎伐浦に到着し、金庚信(キムユシン)が直接率いた5万の新羅軍も炭を過ぎ山伐(ファンサンボル)に陣を構えました。

百済の最後の名将である階伯(ケペク)は黄山伐の戦いを前に戦死する事を覚悟し、妻子を殺して最期の戦に臨みました。

5万の新羅軍を前にして階伯の旗下には僅か5千の兵が全てでした。

しかし彼らは死を覚悟して新羅軍に対抗したため反対に新羅の士気は徐々に落ち始めました。

ところがこの時、新羅軍にいた若い兵士で花朗の官昌(クァンチャング)が2度にわたり一人の百済軍の陣営に突進し結局命を落としました。

これをきっかけに新羅軍の士気が再び上がり、百済軍は全員が戦死しました。

一方、義慈王は熊津城に避難したが泗城が陥落したことを知り降伏しました。

これにより百済は31代678年の歴史に幕を下ろしました。

唐は義慈王を始め、太子や大臣たち、更に多くの百済人たちを唐へ連れて行きました。

また、熊津に都督府をおいて百済の地を支配しました。

この時百済の遺民の中には新たの地を求めて日本に渡るものや、百済の再興を目指すもの少なくありませんでした。

しかし、再興運動は内部の分裂などにより大きな成果を得ることなく終わりました。

日本と一番繋がりのあった、また日本の文化や技術向上に一番影響を与えた百済でしたが、こうして消滅してしまいました。

通常韓国の歴史ドラマでは英雄が勝って終わるというストーリーが多いのですが、最期に新羅兵達に切り刻まれて死んでいく姿は見ていられませんでした。

通常の韓国ドラマでは百済がメインとなることは(イイもん)少ないのですが(現在の韓国人のほとんどが高麗人の流れを継いでいるので)そういった面でも珍しいドラマと言えると思います。

それから、いつも思うんですがイ・ソジンの逞しい二の腕、いつ見てもすてきですね。


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