朝鮮26代君主で最後の大韓帝国皇帝の高宗の娘、徳恵姫の夫で日本の伯爵。
東京帝国大学卒で、父親は対馬藩15代藩主・宗義和の六男。
武志は父の兄・宗義達の長男・宗重望の養嫡子となり宗家を継いだ。
宗伯爵家は、武志の従兄重望が逝去した時点で莫大な借財があり、当時まだ中学生だった武志が伯爵家を継承することで篤志家の支援を受けて破産を回避していました。
このような状況で、東京帝国大学を卒業したばかりの武志が、婚姻により経済基盤を得ようとしたのは自然な成り行きであったと考えられます。現に、義姉の方子女王は、徳恵が発病して縁談が破談になることを心配していたが、武志は破談にはしませんでした。
武志は妻となった徳恵を深く愛し、2人の仲は睦まじく、1年後の1932年(昭和7年)に長女正恵(まさえ)が生まれた。
しかし少女時代から発症していた統合失調症は新婚時代にも症状が見られた上、正恵の出産後から更に症状は悪化の一途をたどり、終戦後の1946年(昭和21年)頃松沢病院に入院しました。
その後、1950年(昭和25年)に韓国人新聞記者が松沢病院を訪問し、徳恵の悲惨な現状を韓国に紹介し、彼女の帰国のための運動を始めました。
1955年(昭和30年)に徳恵は夫と娘を残し、韓国に戻ることになり、武志は徳恵と離婚しました。
のちに、詩人でもあった武志は、愛妻徳恵との別離の深い痛みと悲しみを詩に綴っています。
後に武志は日本人女性と再婚し、3子を儲けました。