綾陽君は第14代国王宣祖の庶5男定遠君李琈(元宗)の長男として生まれました。
綾陽君は本来王位を望める立場ではありませんでしたが、明と後金の両方に尻尾を振る光海君を生ぬるいとする西人派が1623年3月13日、クーデターによって光海君を廃位し、仁祖を擁立して即位させました(西人の乱)。
翌年、平安道で李适の反乱が起り、後金は一時ソウルを占領しましたが、間もなく鎮圧された。生き残った者は満州に逃れ、後金に仁祖の王位簒奪を告げました。
その後、後金は遼西地方にも勢力を拡大して、国号を清と定め、瀋陽に遷都しました。
皇帝(太宗)を名乗ったホンタイジはこれまで兄弟の関係であった朝鮮に君臣の関係を結ぶように迫りました。朝廷では和平か宣戦かを議論していましたが、クーデターの功臣は主和論を主張しましたが、大勢は名分論を振りかざす
主戦論が優勢となり、朝鮮は清皇帝を認めず宣戦を布告することになりました。
ホンタイジは10万の兵を率いてわずか5日目にソウルに攻め込みました。(丙子の役)仁祖は当初、江華島に逃れて抗戦する予定でしたが、清軍の進撃速度があまりに速いため間に合わず、ソウル南方の南漢山城(現・京畿道城南市)に
立てこもりました。南漢山城には14,000の兵力と50日分の食料しかなく、長期抗戦になったので、45日目に降伏を決め、清軍本営に出向き、ホンタイジが天子であることを三跪九叩頭の礼によって認めるという屈辱的な目にあいました。
「花たちの戦い 宮廷残酷史」では最初のシーンで清の皇帝にひれ伏し、頭を地面に9回打ち付け、額から血を流すシーンが印象的でした。
これ以後、近代に至るまで、朝鮮は清の冊封国となりました。
しかも仁祖の長男、昭顕世子は人質として清に抑留されました。
清軍は50万の朝鮮人捕虜を引き連れて満州に帰還しました。
昭顕世子は瀋陽で8年にわたる抑留生活を送った後、1645年に帰国を許されました。
しかし、清での生活に慣れ親しんだ昭顕世子を親清であると見た仁祖との仲は悪化し、世子につらくあたりました。昭顕世子は帰国して2ヶ月で亡くなり、後に世子嬪やその息子達も殺されました。仁祖は昭顕世子の息子ではなく
世子の弟の鳳林大君(後の第17代国王孝宗)を世子にしました。
このことから現在でも世子の死は仁祖による毒殺だと言われています。
歴史ドラマの「花たちの戦い 宮廷残酷史」では廃貴人 趙氏が仁祖が昭顕世子を嫌っていることもあり、自分の子を世子にするために宮廷医官を手なずけ、毒針を打って殺し、世子嬪を陥れ、賜死させ、島送りにされた世孫達も殺してしまうシーンがありました。
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