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第21代王「英祖」(ヨンジョ)1724~1776年

粛宗の次男にあたり、母は和敬淑嬪崔氏あのドラマで有名な「トンイ」です。

朝鮮王朝の歴代君主中最も長生きした君主であり、在位期間もおよそ52年間と最長記録をもっています。

1699年に延礽君に冊立された。生母・淑嬪崔氏(トンイ)は宮廷のムスリ出身(雑事を担当する下女)とされる説もあるが、実際には針房(チムバン)に所属していた宮女でした。

粛宗は張禧嬪といいトンイといい身分の低い宮中の女性に多く手をつけたのですね。

生母が賎しい身分のため、延礽君は同じ王子ながらも世子である異母兄・李昀(景宗)とは全く違う扱いを受けながら育ちました。

熾烈な党争の中で生命の脅威まで感じていた英祖は、王になると少論派を追い出して老論派を登用したものの、徐々に老論と少論の均衡政局を作ろうと努力するようになりました。

しかし即位から4年後の1728年、景宗の死で政治的基盤を脅かされた李麟佐、李有翼らが昭顕世子の曾孫密豊君 李坦を国王に推戴して武力で英祖と老論を追い出そうと謀る事件が起こりました。

この李麟佐の乱(戊申政変)がきっかけとなり、英祖は再び政治的に立場の近い老論を重用しました。

英祖は蕩平策の一つの方法として「双挙互対」を実施しました。

これは主要な地位ごとに老論と少論の人物を一緒に登用し、お互いを牽制させることで政権を独占できないようにするという政策です。

また、1772年には同じ党派に属する家同士の婚姻を禁止しました。

さらに、死刑は必ず3審を経て執行することとする三覆制度を復活させ、士大夫が私的に刑罰を下す行為を禁止しました。

しかし、このような状況は結局、1762年に王世子(荘献世子)の死を招くことになりました。英祖の健康悪化のため、荘献世子は1749年から代理聴政をとるようになりましたが、世子と英祖を離間させようとする老論と貞純王后の画策もあり、英祖の政治手法を批判したことにされて、父子の関係が険悪になりました。

世子に関する度重なる悪評を聞いた英祖は、荘献世子を廃世子とし自害を命じますが、いつまで経っても自害しようとしないため、しびれを切らした王は、荘献を米びつに閉じ込めて餓死させました。

(壬午士禍)。のちにこれを悔やんだ英祖は世子に「思悼」と追号するとともに荘献世子の息子(のちの正祖)を王世孫に冊立し、また後にはこのことを教訓として正祖に代理聴政を行わせ、老論に牽制されることを前もって防止しました。

英祖は一方で、民が兵役の代わりに税金として納める布帛を2疋から1疋に減らす均役法を実施して国民の税負担を大きく減らし、国家に対する義務を身分に応じた負担としました。また朝鮮通信使として日本へ行った趙曮 (en) が持ち帰ったサツマイモを、凶年の際には主食の代用とできるようにしました。

学問を好んだ英祖は自ら書籍を執筆するだけでなく、印刷術を改良して多くの書籍を刊行・頒布させ、民衆の書籍に接する機会を広げました。

英祖のこのような実際的政策の影響で「朝鮮のルネサンス」と呼ばれるほど大きく成長することとなります。

1776年、老衰のため83歳で薨去しました。