純祖は、正祖の次男で孝懿王后の養子として迎えられました。
兄・文孝世子の死後、1800年に10歳で世子になり、同年に即位しましたが、英祖の2番目の皇后だった貞純王后の摂政で政治を主導しました。
貞純王后は正祖が進めていた改革をすべて潰すと、自分の息がかかった者を要職に就けるなどして、政治を私物化しました。
また、1805年には正室純元王后の本貫でもある安東金氏による勢道政治が始まり、長い間この安東金氏の権力が続く事となります。
純祖は安東金氏を牽制するために豊壌趙氏を重用して、1827年、孝明世子(24代王憲宗の父)が摂政になりましたが、1830年に孝明世子の死のために失敗しました。
1834年11月に満44歳で亡くなりました。
王后との間に2男3女、朴氏との間に1女、合わせて2男4女を儲けましたが、孝明世子は孫にあたる憲宗を残して早世し、憲宗の娘2人(純祖からみて曾孫)も夭折しました。
純祖の娘たちも子供が早世したり、未婚のまま死去したりと、子孫を残せなかった為、純祖の子孫はとだえました。
また孫の憲宗の死去により、父・正祖の男系子孫も断絶しました。
【純祖王の家系図】
荘献世子━┳22代正祖━23代純祖━孝明世子(翼宗)━24代憲宗
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┣恩彦君━全渓大院君━25代哲宗
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┗恩信君━南延君(養子)━興宣大院君━26代高宗
*韓国が現在の竹島をを韓国固有の島とする根拠の一つは純祖の命令により編纂された『万機要覧』には、松島(現在の竹島)が
于山島だとする『東国文献備考』からの転記があることとされています。