憲宗は、1830年に第23代純祖王の子、孝明世子が世を去り、1834年に純祖が薨去すると、わずか7歳で即位しなければなりませんでした。
純祖の妃である純元王后が摂政となっていましたたが、安東金氏(純元王后の実家)と豊壌趙氏(憲宗の母神貞王后の実家)の勢力争いがありました。
15歳になった年に親政を開始しましたが、自身も病弱だったため、22歳で崩御しました。
このため、正祖の血を引く王としては最後の王となりました。
憲宗が国を治めた時期は、朝鮮社会を支えてきた身分秩序と封建制度の崩壊があちこちで現われ始めた時でした。
また水害と伝染病のため、生活が徐々に困難になり家を捨ててさすらう流民が急激に増加していました。
このように社会の不安から国王の廃位をねらった謀反事件が2度にわたり発生ました。
1836年には忠清道にいた南膺中が、正祖の弟である恩彦君の孫を国王に推戴しようとし、1844年には閔晋鏞が再び恩彦君の孫を国王に推戴しようと画策しましたが、いずれも失敗に終わりました。
2度の謀反事件ともすべて、なんの政治的勢力もないはずの中人と没落した両班が起こしたもので、この時期には誰もが王権に挑戦することができるほど国王が軽んじられていたことになります。
また、憲宗時代には巷にカトリックが広がりましたが、大規模なカトリック弾圧がありました。
1845年にはイギリス軍艦サマラン号(Samarang)が朝鮮政府の許諾なしに済州島と西海岸を測量して帰る事件があり、1846年にはフランス提督セシルがカトリック弾圧(後述)を口実に、軍艦3隻を率いて国王に国書を受けとらせようとする事件が発生しました。
そして1848年には外国船が慶尚道・全羅道・黄海道などへ頻繁に出没し、民衆が大いに動揺した。まさにこの時から朝鮮は西欧列強から通商と門戸開放要求にあうようになりましたが、朝鮮は国際情勢に暗かったために何の対策も立てられず、重臣たちは自分達の権力闘争に明け暮れていました。
【憲宗王の家計図】
荘献世子━┳22代正祖━23代純祖━孝明世子(翼宗)━24代憲宗
┃
┣恩彦君━全渓大院君━25代哲宗
┃
┗恩信君━南延君(養子)━興宣大院君━26代高宗