韓流ドラマ、韓国コスメ、ソウル旅行情報、韓国の歴史や韓国語など韓流に関する様々な事柄やグッズを紹介します。

Author: admin

百済の最期 「ケペク」を見終えて

テレビ愛知の朝の韓国ドラマで放映していた「ケペク」が最終話を迎えました。 これまで何度も放映されていましたが朝鮮時代にしか興味のなっかったわたしは、無視を続けて、今回初めて見ることになりました。 理由はただ単にほかに ま…Read More…

ドラマの会話表現(今日のお勉強)

数年前ECCで韓国語を2年勉強しましたが、ドラマを見ても字幕がないと何を言っているのかちっともわかりません。 多分、文語と会話の違いなんだと思うんですが、字幕を読むと知っているはずの(習った)言葉なのに言い回しが全然違っ…Read More…

スーパースターK

Mnetを契約していたんですが、あまり面白い番組もなくKNTVの方が韓国ドラマの放映数が圧倒的に多いので Mnetを解約してKNTVを契約しました。 Mnetで大好きだったスーパースターKはどうなったのか一時はすごいはや…Read More…

第三次韓流ブーム (BTS)

防弾少年団の3rdアルバムが、米ビルボードのアルバムチャート1位を獲得しましたね。 | K-pop史上初のビルボード200での第1位を獲得したBTS(Photo by inseltown / Shutterstock) …Read More…

最近見た韓国の歴史ドラマの相関 (軍神 → 奇皇后)

先日ずっと楽しみにして見ていた「武神」が終わってしまいました。 奴婢から軍の長である閣下(ハッパと発音)にまでのし上がったのですが、フビライ・カーン率いる元(モンゴル人だけど中国)に傾倒した高麗の24第完宗王の腹心らに陥…Read More…

ジュリア・マロック 最後の世子妃の悲しすぎる最後

朝鮮王家最後の皇太孫妃の死はあまりにもさびしかった。 他界の便りさえ10日が過ぎた5日に、遅まき知らされました。 大韓帝国最後の皇太子・李垠(イ・ウン)の一人息子である故李玖(イ・グ)氏のジュリア・リー夫人(本名、ジュリ…Read More…

李垠の子孫 李玖(イ・グ)はどうなった?

「李垠」(イ・ウン)の死後は、その息子「李玖」(イ・グ)が李家当主になりました。 1931年(昭和6年)李王垠とその妃方子女王の第2子として誕生しました。 兄晋は夭折していたため、玖が王世子となりました。第二次世界大戦後…Read More…

李方子 様

  1901年(明治34年)11月4日、梨本宮守正王と伊都子妃の第一女子として生まれる。 皇太子・裕仁親王(後の昭和天皇)のお妃候補のひとりとして名前が取り沙汰されるが、学習院女子中等科在学中に李王世子である李垠と婚約し…Read More…

大韓帝国第3代目皇帝になる予定だった 李垠

    李 垠〈イ・ウン〉、1897年10月20日 – 1970年5月1日)は、大韓帝国最後の皇太子で、日本の王族、李王と呼ばれました。 大韓帝国時代の称号は英親王。李氏朝鮮第26代国王・初代大韓帝…Read More…

第27代王「純宗」(スンジョン)1907~1910年

「純宗」(スンジョン)は1874年3月25日誕生、 1926年4月24日崩御しました。 在位は1907年7月20日 – 1910年8月29日です。 父高宗と母は閔妃(ミンビ)の長男としてうまれました。 190…Read More…

第26代王「高宗」(コジョン)1863~1907年

  第25代の哲宗王が跡継ぎもなく死去したため、17代孝宗の系統はとだえました。 このため、孝宗の弟(16代仁祖の三男麟坪大君)の八世孫である高宗が王位を継ぎ、その系統が李王家となりました。 麟坪大君の六世孫にあたる南延…Read More…

第25代王「哲宗」(チョルジョン)1849~1863年ー朝鮮王朝の国王

朝鮮王朝直系の男子が途絶えた 第24代王憲宗が子をもたず、22歳の若さで亡くなりましたが、王族に6親等以内の男子がいなかったため、朝鮮王朝の直系男子はここで途絶えました。   権力抗争で流刑者から宮中に そのころ宮廷では…Read More…

第24代王「憲宗」(ホンジョン)1834~1849年

憲宗は、1830年に第23代純祖王の子、孝明世子が世を去り、1834年に純祖が薨去すると、わずか7歳で即位しなければなりませんでした。 純祖の妃である純元王后が摂政となっていましたたが、安東金氏(純元王后の実家)と豊壌趙…Read More…

第23代王「純祖」(スンジョ)1800~1834年

純祖は、正祖の次男で孝懿王后の養子として迎えられました。 兄・文孝世子の死後、1800年に10歳で世子になり、同年に即位しましたが、英祖の2番目の皇后だった貞純王后の摂政で政治を主導しました。 貞純王后は正祖が進めていた…Read More…

朝鮮王朝の王の妻(側室)の呼び名

朝鮮時代の国王後宮の側室の地位と呼び名は「品階+姓」で呼ばれました。 正一位 嬪(ピン) ・側室がなれる一番上の位で、重要な地位の王子を産んだ側室だけがなれる地位。 トンイは、奴婢の生まれでしたが、女官になってから王の寵…Read More…

第22代王 正祖(ちょんそ)(イ・サン)1776~1800年

韓国時代劇のドラマ『イ・サン』、『三銃士(パク・ダルヒャン)』や映画『王の涙-イ・サンの決断-』の 主人公として有名な正祖(チョンジョ)ですが、王になる前から何度も命の危機にさらされました。 21代王・英祖の息子荘献が世…Read More…

第21代王「英祖」(ヨンジョ)1724~1776年

粛宗の次男にあたり、母は和敬淑嬪崔氏あのドラマで有名な「トンイ」です。 朝鮮王朝の歴代君主中最も長生きした君主であり、在位期間もおよそ52年間と最長記録をもっています。 1699年に延礽君に冊立された。生母・淑嬪崔氏(ト…Read More…

第20代王「景宗」(キョンジョン)1720~1724年

粛宗の長男であり、父の粛宗は彼の誕生を非常に喜んだとされ、側室の張禧嬪は一旦は王后になりますが後に前の仁顕王后が復位し、張禧嬪は嬪に降格し、後に仁顕王后が亡くなった時、呪詛したとして賜死します。 にもかかわらず3歳の時に…Read More…

第19代王「粛宗」(スクチョン)1674~1720年

1661年8月15日 (旧暦)に顕宗と明聖王后金氏の一人息子として生まれ、1667年に王世子に冊封、1674年8月に14歳で朝鮮国王に即位しました。 歳は若くても、直接国を統治しました。 三大悪女といわれる張禧嬪(チャン…Read More…

第18代王「顕宗」(ヒョンジョン)1659~1674年

顕宗は第17代国王孝宗の第1王子です。 外国からの侵略がなく先代の孝宗のおかげで国内情勢も安定していましたが、在位15年間中、西人と南人の第1次礼訟論争(1659年)で父の考宗が亡くなった時、祖父仁祖の息子達より若い継妃…Read More…